誰にも見せなくても
キレイなものはキレイ
もう知ってるから
『PINK BLOOD』 宇多田ヒカル
札幌のゲストハウスの二段ベッドの上段で寝っ転がりながら実家のある北九州にいる弟とLINEをしていた。
お互いの近況を詳しくは知らないけれど、「メッセージ」のやり取りを少しすれば、言葉の使い方や返信のタイミングなんかでなんとなくどんな心境で過ごしているのかがお互いにわかる。
弟と連絡をすると、そんな気がしてくる。
弟の気の使い方はフツーの人とは違っていて、わからない人には一生わからないような気配りをしたりする。
大半の人が見過ごすような気配り。
後から気づいてハッとするような気配り。
弟がさっき教えてくれた宇多田ヒカルの『PINK BLOOD』を聴きながら、ブログを編集しようと思ってMacBookを開いた。
電源ボタンを押した。
液晶が明るくならない。
暗いままだった。
「あっ、壊れた」と思った。
「人生のステージが上がるときには電子機器が壊れたりする」と、スピってる人たちが言ってる。
「ステージアップの時に身の回りのモノが壊れる説」に対して、「たぶんそうだろうなぁ」と思っていたこともあり、MacBookの液晶は暗いままでも気分は暗くならなかった。むしろ「あぁ、やっぱり来たか」と思った。
変化の前には予感が先にやってくるものだ。
「昨日の自分と今日の自分はもう違う」なんて言っている人たちがいる。
そういう人に共感したりする。
ぼくの中にも「昨日の自分と今日の自分はもう違う」と言ってしまうような部分がある。
昨日の意見と今日の意見が真反対だったりする。
フツーに考えれば、そういうのはちょっとヤバい。
「言ってることがコロコロかわる」と、ふつうは人から信用されない。
でも、世の中をみていると「一貫性」なんてものに躍起になり過ぎていると感じる。
「一貫性」に躍起になり過ぎているから、大事なものが見えなくなっているようにも感じる。
そういうのを感じて、嫌な気分になる。
言ってることがコロコロ変わるから、周りの人を混乱させたりする。
申し訳ないから黙って自分の中に「揺らぎ」を収めようとするけど、やっぱり黙ってられない。
揺らぎながら、その揺らぎの中で感じられる「何か」の断片を言葉にしたくなる。
大きく揺らいで、そこに人を巻き込んでしまう。
そういう自分に懲りずに付き合ってくれる人がいる。
それを忘れちゃいけないなぁと思う。
同時に、目まぐるしく変化する世界で生きるなら「大きく揺らぐ」ぐらいがちょうどいいと思うし、そうでなきゃ辿り着けない世界というものがきっとあって、そこに辿り着こうとしているのは自分だけじゃないと感じる。
「変化という試練」を潜り抜けるには、フツーの人がつくったフツーの世界の常識は邪魔になる。
そういう常識なんかを、バランスをとりながら上手に捨てられるかどうかが、「そこ」に進めるかどうかの鍵になるような気がする。
そんなことを考えつつ、宇多田ヒカルをヘビーリピートしていた。
MacBookの真っ暗な液晶を眺めながら、今日はもう黙って寝ようと思った。