こんばんは。
このまえカフェでBill Evansの『Waltz For Debby』という曲を聴いていました。
ピアノの音色に耳を澄ましていると、”無垢な少女”のイメージが浮かんできて、そのイメージをそのまま雪景色に重ねながらコーヒーを飲みました。
「宙を舞う雪の一粒一粒が音符に見えてきた」というと嘘になってしまうのですが、「雪の音楽」のような情景が浮かんできて、雪景色の奥行きを感じました。
色んな表情を魅せてくれる北海道が、とても好きです。
「理解というのは誤解の総体である」というようなセリフが『スプートニクの恋人』の中に登場してきて、そのフレーズが昔から心に残っていた。
そもそも「わかる」とはどういうことか。
「理解する」という行為を理解することは可能なのか。
という禅問答のような問いの答えを探して考えを巡らせていた時期があったけれど、いまはそういうことについて考えることをやめた。
「自分の”本当の気持ち”は何なのか」とか、「他人の”本当の気持ち”は何なのか」とか、そういうことで悩むことはある意味豊かではあるけれど、あまりそういうことに深入りしすぎるのはよろしくない。
そういうことで悩むこと自体がよくないのではなく、悩みの「加減」を誤るのがよろしくない。
「加減」の問題であるから、明確に「これが正解だ」と言えるようなものは存在せず、理屈で型にはめたりすることもできない。
そこが難しいところである。
難しいところであるからこそ、その「加減」を知ることには価値があるのかもしれない。
たまにはもっと”いい加減”に考えたい。
雪景色を眺めるように、いい加減に考えたい。
ゴキゲンに舞う雪のように。
頭を真っ白にして。