目が太陽のごときものでなかったら、
どうしてわれわれは光を見ることができよう?
われわれの中に神自体の力が生きていなかったら、
どうして神々しいものがわれわれをうっとりさせることができよう。
『温純なクセーニエン』 ゲーテ
「流氷を見てみたい」とおもって13年がたち、ようやく観る機会が訪れた。
北海道のすみっこに、たどりついた。
13年のあいだ、ぼくの心の中には流氷はすでに浮かんでいた。
「流氷を見てみたい」と思ったときから、それはすでに氷の塊になって「海」の上にゆらゆらと浮かんでいた。
高校生のころ、そのとき付き合っていた彼女が辻村深月さんの『凍りのくじら』という小説を貸してくれた。
本の内容を思い出したり、本を貸してくれた子のことを思い出したり、そのときにいた場所の景色を思い出したりしていた。
「本」を起点にした記憶を巡りながら、流氷観光船のある網走港へ向かった。
グルグルとうずまく記憶の渦をたどりながら、目的地までの道をまっすぐにあるいた。
朝陽が昇っていた。
ぼくの胸の前でうなだれるようにぶら下がっていたカメラを空に向けて、何度かシャッターを切った。
おーろら3。
流氷観光船の名前だ。
エメラルドグリーンとオレンジのカラーリングだった。
懐かしい色だった。
13年前にも、この色をどこかで観た。
どこだったっけ?
記憶の渦のなかにあるその「どこか」をさがした。
思い出した。
それは高校の「ピロティ」だ。
下駄箱にむかう途中にある、コンクリートの屋根のある薄暗い空間。
そこで、エメラルドグリーンとオレンジの「何か」に出会った。
エメラルドグリーンは「新しい始まり」や「自然」をあらわし、オレンジは「幸福」をあらわしている。
流氷のところまで連れて行ってくれる『おーろら3』という名の船には、そういう意味が込められているみたいだ。
『おーろら3』が流氷にむかう航路は、太陽のある方向と同じだった。
流氷と太陽のもとに向かう道のりで、何度かカメラのシャッターを切った。
なんとなく”誰か”に「カメラをやりな」と言われている気がして、なんとなくはじめたカメラ。
特別な理由は特になく、なんとなく「やってみたいな」と思ってはじめたカメラ。
それなりにたのしかったり、そうでもなかったり。
なんとなくはじめて、大抵の場合、そのままなんとなくやっていた。
なんとなくはじめたカメラだったけど、『おーろら3』に乗って流氷を待っていると、「真剣にやってみたいな」という思いがよぎった。
初めて出会った感情だった。
初めて出会った感情だったけど、この感情がおとづれるのをずっと待っていたような気がする。
おーろら3が知床の海に入っていた。
とても寒かった。
とても寒かったけど、寒さを忘れさせるような景色がそこにあった。
夢中で海を眺めていた。
夢中でシャッターを切っていた。
「ちがう、そうじゃない」
「そこにはいない」
流氷が映らない。
そこにあの流氷があるのに、それが映らない。
ちょっと悔しかった。
でも、ずっと観たかった綺麗な流氷がそこにあることがわかった。
なんだか安心した。
うれしかった。
あの流氷を映せるように、真剣にカメラと向き合ってみようとおもった。
知床の海で、「あたらしい道」に出会えた。
うれしかった。
しばらくすると、船がとまった。
そして、港へ帰るためにUターンし始めた。
太陽を背に、エメラルドグリーンとオレンジの船がもういちど動き出した。
帰りの道の航跡は、太陽のもとから伸びていた。
きれいな航跡だった。
すごく寒かったけど、「流氷を観にきてよかった」と思った。