敬虔だけが利己主義に対抗する。それが奇跡によってすべての人間に明らかに現れるならば、この世が現在、そしておそらくは永久に不治に病むところの一切の禍から、この世を癒すであろう。
『ドン・アロンゾ』 ゲーテ
神社に行くと、300円で青いお守りが売られていた。
「現世利益」を得るにはお金が必要らしい。
紛れもない「ビジネス」だ。
神社の清々しい雰囲気につられて気分が開放的になると、「”ご利益”にお金を払ってもいいかな」と思うのかどうかは定かではないが、人々は神々に「支払い」をしたくなるらしい。まるで「お祓い」をするかのように。
はたして、お金を差し出せば、「余計なもの」が祓えるのだろうか。
「現世利益」というものは、基本的に「嘘」だと思った方が賢明だ。
神社で何を願おうが、それを”実現する”のは「自分自身」に他ならない。
そこで”手を合わせて”叶えようとする「願い」は、この世の「現実を良くする」ことには関係がない。すくなくとも直接的には。
現世で良いことが起きようが嫌なことが起きようが、そこに変わらず存在する「豊かさ」に気づかせるのが「神」や「仏」と呼ばれるものの役割であり、現世で「良いこと」を起こすように努めるのは人間自身に他ならない。
「良いこと」が起こると嬉しくて豊かさが感じられるのは当然だが、「嫌なこと」が起こっても豊かであると感じられるには工夫が必要で、古来より人類が「嫌なこと」と対峙するために積み上げた工夫、その工夫による「発見」が宗教というものなのだろう。
嫌なことが起こると「現実」から目を背けたくなるのが人情というものだが、しかし人間は死ぬまで「現実」と付き合わなければならないわけで、目を背ければさらに「現実」の中で彷徨うことになる。
「何があっても大丈夫。」
そう思えるようになるための「装置」が宗教というものだと言ってもいいのかもしれない。
苦しいことを「なかったこと」にするためにこの「装置」を使おうとすると不毛な結果に終わることが多いのは周囲を観察して気付かされることだが、苦しいことがあっても「なんとかやっていける」だけの力を汲み取るためにこの「装置」を使うと、結果的に現実を豊かに生きられるようになるのも周囲を観察していて気付かされることでもある。
300円を支払って、それで”なんとかやっていける”と思えるのなら、それは確かに「現世利益」がもたらされたと言えるのかもしれない。
”意味”のある「支払い」だと思わせられるのなら、それは「真っ当なビジネス」だと言えるのだろう。
今日も神社は清々しい。