2022.8.29
朝、燃え殻さんの『これはただの夏』を聴いていた。
バイト先にいる実家が福島の子が「ゆべし」というお菓子をくれた。
”捻れたお餅”みたいなお菓子。
それを頬張りながら小説を聴いていた。
「おみやげ」という言葉が妙に沁みてきた。
ただのお菓子なのに、お土産としてもらうと、その分だけ美味しくなる。
汗で肌がベタついていた。
自転車をこぎ、風を感じながら、バイト帰りにセブンイレブンによった。
「いか人参」という珍味っぽいお土産も「ゆべし」と一緒もらった。
おみやげ二つ目。
「白米に合いそうだなぁ」と思ったけれど、わざわざ炊くのは面倒だなぁと思った。
だからレンチンのご飯を買った。
ついでに納豆と卵も買った。
帰り道、汗が風で冷えて、肌がスーッとしていた。
家に帰って、さっそく白米をチンした。
レンチンの白米は、いかにも人工的な匂いがした。
人工的で、なんの「ぬくもり」もなさそうな白米。
パックから取り出し、お椀に白米を移し替えた。
人工的でねちゃねちゃした白い粒々。
そこから立ち上がる煙をみていると、でもやっぱりこれは「ほかほか」だなぁと思った。
お土産のいか人参を白米の上に乗せた。
それから、かき混ぜ終わった納豆を入れた。
最後に生卵をまんなかに乗せて、「あぁ、これはただの夏だ」と独り呟いた(これはウソ。言えば良かった。)。
わざとらしい都会の世界で生きていると、時に窮屈な気分になる。
でも、人工的で窮屈な世界でも、それなりに楽しくやっていける。
工夫すれば、退屈せずにいられる。
不自然なものの中の自然さというか、窮屈なもののなかにある解放感というか、ものごとの「捻れた側面」に触れていくことで感じる”温かさ”みたいなものがある。
そういうものがあるから、生きることも捨てたもんじゃないなぁと思える。
というより、”世界はそもそも捻れてる”ということを思い出す。
”人生はそもそも捻れてる”ことを思い出す。
思い出して、どこかホッとする。
どこか、”ホカホカ”したものを感じて、安心する。