2023.07.05
あるこう あるこう わたしはげんき
あるくの だいすき どんどんいこう
『さんぽ』 井上あずみ
高見の見仏を眺めたあと、八幡宮に向かった。
話が一変するけれど、今、この文章を書いているのは10月9日だ。だから、3ヶ月前のできごとについて振り返ろうとしている。
そして、その3ヶ月前の記憶はボンヤリしている。
この3ヶ月のあいだ、とにかく色んなことがあった。この日は、その「色んなこと」を暗示するような1日でもあった。
この日記を書きながら「記憶の海」へ潜ろうとしているように、この3ヶ月の実生活も、なにか「海のような場所」へ潜っているようだった。フツーに地上で生活しているとは、とても思えなかった。
というか、「自分」がどこにいるのか、よくわからなくなっている。「自分」の声が、聴こえなくなっている。
後藤航己と呼ばれる人がいるのは、伊豆高原と呼ばれている海の近くの寂れた観光地で、だから僕がいまいるのはたぶんフツーに考えれば「伊豆高原」になる。
でも後藤航己と呼ばれる人は「フツーの考え」にとどまるのが結構苦手らしく、ときどき(?)「フツーの世界」から遊離してしまう。
遊離してどうなってしまっているのかよくわからないけれど、肉体は少なくとも死ぬまでは「フツーの世界」にとどまるしかないので、やっぱりちゃんと「フツーの世界」で生きていかなくちゃいけない。
ここは現世だ。
うーん、かなり煮詰まって来てる。
八幡宮に向かって歩いていると、3人のおばちゃんに出会った。
「このへんに神社ってないですか?」と尋ねた。なんだか不審な目で見られている気がしたから、「”自分”は怪しい者ではありません」とエクスキューズするかわりに「行き先がわからないフリ」をして、「答えのわかりきった質問」をした。
おばちゃんたちは少し表情をゆるめて、「この道をまっすぐ行ったところにあるよ〜」と教えてくれた。
おばちゃんたちに言われたとおりに歩いていると、寺が見えた。神社のすぐ隣に、お寺があったのだ。
お寺も気になったけど、とりあえず先に神社に行こうと思ってそのまままっすぐ歩いた。
仏よりも神に会いたかったのだろうか。
神社に辿り着いた。鳥居の前で一礼して、足を踏み入れた。
「トトロだ」
閑かな森の中にあるこの社には、トトロがいると思った。
トトロがいると思ったというか、トトロがいたらしっくりくるなぁと思った。
トトロに出会えるのは「こども時代」だけ。ぼくはもう、トトロに逢えないのだろうか。
いや、きっとそんなことはない。
大人というのは、結局のところ、大人のフリしたこどもなのだ。
つまり、ホントはみんなこどもなのだ。
大人というのは、ごっこ遊びの役柄だ。単なる役名なのだ。
ただの役柄なのに、ただの「被り物」なのに、それをホントのものだと思うからトトロに逢えなくなる。
「トトロに逢いたいなぁ」なんて思いながら、精気に満ちた神社をテクテク歩きまわっていた。
こんなに気持ちいい場所が近所にあるなら、これからしばらくは安心だなぁと思った。
どうせそのうち「俗」に塗れるから、穢れがたまったらここで禊がせてもらおうと思った。
邪気で縫い込んだ「被り物」を被ってしまったら、ここで脱ごうと思った。
そんなことを思いつつ、「どうしてそんなに弱気なんだろう」とも思った。
別に”自分次第”でどうにもなるじゃないか、とも思った。
最初から世俗の生活を諦めているのは、きっとまだまだ「ガキ」だからだ。
最初から世俗の生活を見放しているのは、”世俗の価値”を知らない「ガキ」だからだ。
「自分次第」の”看板”を掲げるのが大人というもの。
「自分次第」で自分の人生をどうにかするのが大人というもの。
大人の役割のひとつは、「餓鬼」を手懐けること。
餓鬼だらけの世界なんて、想像するだけで喧しい。
餓鬼は大人に殺されていい。
「ガキ殺し」が大人の演目だ。
大人が餓鬼を殺したとき、そこに”洗われた存在”としてのこどもが残る。
大人を演じて、大人を被って、その上でそれを脱ぐこと。
暑苦しい森のトンネルを抜けるために”着替える”こと。
人生には「衣替え」が必要な季節がある。
その季節を乗り越えれば、きっとあいつに出会える。
無事にトンネルを抜けた先には、あいつが待っている。
いま、サツキやメイみたいにキレイな心を持っていなくても、大人になってしまっていても、あいつはいつでも待っている。
森のトンネルの先で、”大きな寝息”を立てて、待っている。
大人になっても大丈夫。
森の神社で散歩をしながら、すこしは大人になろうと思った。
もうちょっと、大人になりたいと思った。