その人の風

2022.12.13 

 

 

 

気持ちよくしゃべるように書きたくて、書くことも「気持ちいいこと」にしようとしている。

気持ちよくないと続かないし、楽しくないことにはなるべく時間を使いたくない。

 

だけど余計なことをしゃべると「イヤな気持ち」になるし、余計なことを書くと「イヤな気持ち」になる。

余計なことをせずに、でも黙らずに何かをしゃべって、黙らずに何かを書きたい。

 

さっきYouTubeで唾奇のインタビューを観ていた。

インタビューのなかで、「自分の体験してることのほんの一部しか曲にしてない」みたいなことを唾奇は言っていて、「自分のことを全部さらけ出したいとは思ってないし、そんなことはしない方がいいと思ってる」みたいなこと言っていた。

その辺の話を聴いて、唾奇のあの「ちょうどいい感じ」の源泉が垣間見えた気がした。

 

自分の「重い経験」を綴ったラップとか、世界の「不幸な感覚」を詠うものもけっこう好きだ。

ただ、そういうのも好きなのだけど、その重い経験や不幸な感覚それ自体に、何か価値を感じているわけではない。

「共感なんて軽い言葉を使いたくない」とか、そういう”倫理的な気持ち”を大切にしたい部分もあるけど、それだけでもない。

なんというか、「重さ」とか「軽さ」とか、「幸福」とか「不幸」とか、そういうのとは関係のない部分に惹かれるものがあれば、その作品とか人物に親しむことができる。

重くて辛い経験をしてても、軽くて楽しい経験をしてても、変わらずそこに吹いている「風」のような何か。

その作品やその人に吹き抜けている「風」のようなもの。

そういう「風」を感じさせてくれるものが好きなんだと思った。

 

 

 

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