(14) ちょっと固いジャガイモ

 

 

 

天国にひとりでいたら、

これより大きな苦痛はあるまい。

『格言的』 ゲーテ

 

 

 

 

ウポポイを出て、「カフェ リムセ」というところでランチをしていた。

 

前日にウポポイが休館日だったにも関わらず来てしまったので、気を取り直して今日リベンジした。

支笏湖まで行って、そこから白老まで巻き戻し。一度通過した道を、戻ってきた。

 

「失敗したら巻き戻せばいい」という楽観的な思考には一長一短ある。

メリットは挑戦的になって未来思考になるところ。

デメリットは緊張感を失っていま現在を蔑ろにするところ。

 

いまこの瞬間を緊張感をもって生きつつ、「未来へのまなざし」を失わないようにするにはどうすればいいのだろうか。

いまこの瞬間への緊張感は「責任感」からうまれる。フランフルはそう言っている

「一回性」というものを認めて生きることが、責任意識をもたらす。感覚として、それはわかる。

いまこの瞬間はもう二度とやってこない。それと共に、いまこの瞬間は「永遠」に触れている。感覚として、それもわかる時がある。

 

人の”存在の歩み”は、死を超えてどこまでもつづいていくように思える。

「生まれ変わり」の仕組みはよくわからないけど、「何か」が続いていくことは確かだと感じる。

でも、「何か」が続いていくとしても、放っておくと続いていかない「何か」もあって、それを生きているうちにつかまなきゃいけないような気がしている。

「別れ」の機会がおとづれると、いつもそんな気がしてくる。

 

「別れ」がおとづれたとき、そのときまでに「何か」をつかんでいなければ、またどこかで「かたち」を変えて出会うことになる。

「何か」をつかめなければ、相変わらず”悲しみ”や”空っぽ”にあふれた世界で再会する。

「何か」をつかみ続ければ、それがいつか「決定的な何か」になって、それによって「再会の場所」は”悲しみ”や”空っぽ”とは縁のない場所になる。

 

そんな気がする。

何の「保証」もないけど、そんな気がする。

死んだ後のことなんて結局はわからない。

わからないけど、考える。

”感じとった材料”をもとに、考えてしまう。

考えて、自分なりに仮説をたてる。

仮説をたてると少し安心する。

でも、そこには何の「保証」もない。

 

死後のことには何の「保証」もない。

だけど、生きているあいだのことはわかる。

生きているあいだに確実に掴みとれる”意味”は「一期一会」のなかにある。

そう、確かさをもって感じる。

 

「一期一会」というのは人が出会って別れるということを示す言葉だ。

けれど、それが意味するのは単に出会って別れるということではなく、瞬間瞬間に変わり続ける者同士が、その変わり続けるプロセスの中で「何か」を交わし合うということにある。交わし合いつづけることにある。

その「何か」を交わし合い「機会」を逃さないように戒めるような響きが、「一期一会」という言葉にはある。

単に出会って別れるだけなら、何の意味もない。

そんな戒めをあたえる響き。

 

その「一期一会」という言葉と似たような響きを、「一回性」という言葉にも感じる。

「一回性」というのは、自分も他人も自然もふくめた”変わりつづける者たち”の、そのあいだに起こる出来事だと思う。

その時々のその瞬間にだけおとづれる永遠のかけら。

「一回性」に価値がうまれるのは、その「一回性」に潜んでいる「永遠のかけら」をつかんだときだけ。

その「永遠のかけら」は”変わりつづける者たちのあいだ”にしか現れない。

  

「一回性」という”その瞬間の出来事”は、自分ひとりにだけ関係することではない。

だからこそ、そこには「責任」が宿っている。

一人きりなら、責任なんかいらない。

 

ウポポイのすぐ近くのカフェで「チェプオハフセット」を食べながら、そんなことを考えていた。

はじめて食べたアイヌ料理は塩っぱかった。

ゴロゴロしたじゃがいもが、おもったよりも固かった。

そしてそれは、なんだか懐かしい味がした。

ゴロゴロしたじゃがいもには、塩っぱくて懐かしい味のするスープが染み込んでいた。

アイヌのじゃがいもは、その塩っぱいスープにすこし溶かされていた。

すこし溶かされて、柔らかくなっていた。

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