いざ歌へ
われ立ち舞はむ
ひさかたの
こよひの月に
い寝らるべしや
良寛
このまえ、ニセコの気温は12℃でした。これは5月並みの気温だったそうです。
今年の冬は暖冬で、思ったよりも早く「春」が近づいているようです。
雪のとけたコンクリート剥き出しの道路を歩きながら、あっけなく終わりそうな冬になんだか拍子抜けしていました。
「pyram」を出たあと、カメラをぶら下げて「羊蹄山」の撮影に行きました。ニセコの名物であり「蝦夷富士」と称される山です。
ぼくは毎朝、「部屋の窓」からこの羊蹄山を眺めています。
幸運なことに、「蝦夷富士がみえる窓」がちょうど自分の部屋についていたのです。
雪を纏った蝦夷富士は、毎日すこしずつ表情を変えています。
晴れの日も、雪の日も、すこしずつ表情を変えながら、いつも変わらず「窓の外」に居ます。
ぼくが羊蹄山をみているのか、羊蹄山がぼくをみてくれているのか。
いつも変わらずそこに居てくれるから、ときどき、羊蹄山がぼくをみてくれているんじゃないかと思ったりします。
人は、”ただ見られている”だけで安心したりするものです。
何もしてくれなくてもいいのです。
ただただ見守ってくれるだけで、力がわいてくるものです。
雲に覆われて姿が見えないときも、「そこに存在している」と思える。
窓の外の羊蹄山は、それぐらいの存在感があります。
「見えなくても、見える」のです。
不思議ですね。
「芸術とは、見えないものを見えるようにすることだ」と言ったのは、パウル・クレーです。
「色彩と線の魔術師」と呼ばれたスイスの画家です。
ぼくはクレーに影響を受けました。絵も好きだし、考え方も好きです。
「芸術」を志す者として、クレーの言葉を大事にしようと思っています。
ところで、「芸術」という言葉は何か「高尚なもの」を想起させることが多いようです。
ぼくは芸術というものを「アート」という言葉の語源である「アルス」という言葉に遡り、そのまた語源となった「テクネー」という言葉に遡ってイメージしています。
「テクネー」は、「テクニック」や「テクノロジー」という言葉と類縁するように、「技術」という意味が含まれます。
つまるところ、「芸術」とは「生きるための技術」なのだと思います。
ぼくはきっと「生きるための技術」を磨きたいのだと思います。
「ぼくたちはどう生きたらいいのか」をいつも考えています。
「よりよく生きるために何が必要なのか」をいつも考えています。
だから、「芸術」というものを人生の根幹に据えようとしているのでしょう。
そして、「見えないものを見えるようにすること」が、「芸術=生きるための技術」の根幹にあるコンセプトであると思い、そこに忠実に生きたいのです。
ぼくはまだ、「芸術」という言葉を軽々しく語れる存在ではありません。
でも、「志」はいつでも「芸術」にあります。「芸術」をもってして、”高み”を目指しています。
自分だけが”高み”に至ればいいと思うのなら、わざわざ「技術」をみがいて「何か」をカタチにしなくてもいいでしょう。
技術を磨いてカタチにしたいのは、あなたと一緒に「そこ」に至りたいからです。
「それ」をカタチにしたいのは、あなたと一緒に「そこ」から景色を眺めたいからです。
「低いところ」にいる今だからこそ、「志」くらいは高く持っていたいものです。
ハッタリでもいいから、「志」くらいは高く持っていないと、”険しい道のり”を乗り越えられる気がしませんから。
晴れた日の道路沿いの雪道は、目をチカチカさせるぐらいに眩しかったです。
宙にのぼっている太陽に、「もうちょっと手加減して」と言いたくなるくらいに眩しかったです。
いまは「月の光」と息を合わせて日々を歩んでいるから、「太陽の光」はすこし強すぎるのです。
でも、その「強すぎる光」は、なんだかぼくの「恩師」みたいで懐かしくて嬉しいきもちになりました。
「恩師」のように、ぼくの気持ちを温めてくれました。
クシャクチャの笑顔で笑いながら厳しく訓練に付き合ってくれた、消防2年目のときの隊長を思い出しました。
ぼくが生意気に「ちょっと眩しすぎるっす」なんて言うと、笑いながら「うるせーちゃ、さっさやれ」なんて言われそうです。
なんだか、感謝の気持ちがわいてきました。
高みを目指して歩く眩しい道のり。
「自分一人でここまで歩いてきたわけじゃない」と、当たり前のことに気付かされます。
当たり前のことは、当たり前なんかじゃない。
それを忘れちゃいけないなぁとつくづく思います。
道路沿いにまっすぐ伸びた道から脇にそれて、「ひらけた場所」を目指して歩きました。
羊蹄山は、もうすぐそこで待ってくれています。
「眩しくて、たのしい道のり」がなんだか愛おしく思えて、「もう着いちゃうのか」と、気持ちが行き場を失ったような、ふわふわした感覚になりました。
目標を達成することは、目的を果たす事とはちがいます。
目標は単なる「カタチ」です。
「だから、目標なんかどうでもいい」なんてことを言いたいわけではありません。
目に見える「カタチ」は、目に見えない「何か」に支えられています。
目に見える目標も、目に見えない目的も、両方大切なのです。
その”両方”をつかもうとするところで、「素晴らしい景色」が見えてくるのだと思います。
それを忘れないでいたいです。
「眩しい道のり」の先に、「蝦夷富士」が待っていました。
冬の晴れた日に、どっしりとそこで待っていました。
もう何も言うことはない。と思いました。
けれど、ただただそこで見守ってくれていた蝦夷富士は、「これで終わりじゃないぞ」と言っている気がしました。
「ハッ」としました。
そして、うれしくなりました。
ぼくの道は、まだまだ続きます。
山のちかくの”低いところ”からじっくり「蝦夷富士」を眺めてシャッターを切り、「これからのこと」を考えながら帰ろうと思いました。
明日からも、窓の外の蝦夷富士を眺めて過ごす日々が続きます。
いつも変わらず、そこにある山。
いつも変わらずそこにある山は、明日からどう見えるのだろう。
楽しみがひとつ増えた帰り道。
陽の光を背に、山のみえる部屋へかえる道のりの一歩一歩。
帰り道に残された足跡。
いろんな形の足跡。
ぼくは、誰かの”目に見えない歩み”に支えられている。
足跡を眺めながら歩き、そう気付かされました。
誰かの”目に見えない歩み”がそこにあること。その不思議。
誰かの”目に見えない歩み”の跡が並んでいること。その不思議。
自分の”目に見えない歩み”がそこに連なっていくこと。その不思議。
今日は、”歩くことの不思議”を教わった撮影日和でした。