朝起きたとき、「今日は夢を見なかったなぁ」と思った。
でも起き上がって顔を洗っていると、ハッと思い出した。
弟と誰かの葬式に参列していた。
お焼香の台の前に凛とした顔で座っているお坊さんがいた。
そのお坊さんの足元にあった木箱に、封筒にお金を包んでお布施した。
この頃、夢の内容を思い出したり思い出さなかったりする。
でも、現実の世界を生きているときにも、途切れ途切れで「夢の断片」が現れてくる。
現実というのは、夢の”果実”が飛び散って”現れる”場所だから、「現実」と名付けられたんだろうか。
そういえば、昨日の昼にキウイを食べた。
昨日はそのキウイ以外に炭水化物を食べなかった。
包丁でシュパッと真っ二つにされたキウイ。
切られた断面からスプーンですくって口に運んだら、刺激が強くてちょっと怯んだ。
キウイの断面は夢と現実の境界で、その魔物がひそむ境界に不用意に触れると「何か」が飛び散るのだろう。
今日の朝刊のあいだは、『神話と星座のおはなし』を聴いた。
神話と星座の関連をほとんど知らなかったから、”刺激的な”時間になった。
途中から青葉市子さんの『マホロボシヤ』を聴いた。
心地よい幻と滅。そんな感じだった。
青葉さんのインタビュー記事を読むと、ふと「マホロボシヤ」という言葉が思い浮かんだと書いてあった。
マボロシ、ホロボシ、マホロバ。
もしかして、この言葉はキウイの断面から飛び出してきた?
家に帰って少し眠った。
起きたあと、マホロボシヤを聴きながら朝食を作った。
ネバネバサラダとアジの開きと味噌汁。長芋とオクラをまな板に載せて包丁をトントンして、マホロボシヤの演奏に参加した。
切った野菜をなめことワカメと一緒に皿に載せた。
今日のネバネバサラダは、妙に爽やかで、そして懐かしかった。
「感謝して食事をする」という言葉の意味が、小さい時からちょっとよくわからなかった。
手を合わせて「いただきます」と言って、いちおうそれっぽく食べていた。
だけど、どこか気持ちが”ボンヤリ”していた。
でも、その気持ちがすこし晴れてきた。
それは幻滅のさきにある「まほろば」だ。
幻と滅が織り成す世界。
キラキラした星のような幻滅。
その幻滅の先には、温かい小屋がある。
夜空がみえる窓付きの小屋。
小さな小屋。
その小屋に思いを馳せたとき、感謝が瞬いて雲の向こうが見えるようになる。