お久しぶりです。
お元気ですか?
なんだか肌寒くなってきましたね。
さっき駅のホームに立っていたのですが、線路と線路のあいだに芒(すすき)が根を生やしていました。
風に揺られる気持ちよさそうな芒をみていると、夏がおわったなと思い、すこし寂しくなりました。
夏の思い出がどこか”遠い昔”のことに思えてきて、「あの日々は何だったんだろう?」と考えていました。
なんだか、心の中に「すきま風」が吹いているみたいでした。
「心にぽっかり穴が空いたみたい」というのとはちょっとちがって、もっと前向きなものです。
前向きなのはきっと、心のなかにこれから新たに根を張っていく「何か」のための隙間が出来てきて、その「何か」を楽しみにしているからだと思います。
お互い、この秋も、その先の冬も、充実した日々を過ごしたいですね。
さて、本題です。
今回も「旅の記憶」を振り返りながら、小説風日記?のようなものを書こうと思います。
僕は「物語の力」を借りないとうまく生きていけない人間です。
そして、僕ほどではないにせよ、僕と同じような部分を持つ人がそれなりにいることも知っています。
そういう人たちとの間に、ある種の「つながり」を感じさせてくれるのも「物語」の持つ力の一つです。
物語の世界に入り、そこに根を持って生きているとある種の「つながり」が存在することに気づき、力が湧いてきます。
力が湧いてきて、「今日もしっかり生きよう」と思えます。
だから、今回も「物語の力」が宿るような文章を書きたいと思いました。
ちょっとレトリックになるのですが、「事実通り」に書くよりも、ちょっとした「嘘」を経由した方が「本当の事実」に近づけると僕は信じているので、今回は「半分フィクション」で行きます。
つまり、50%ノンフィクションです(!)。
単なる日記(日常・ノンフィクション)でもなく、単なる小説(非日常・フィクション)でもなく、そのあいだを縫っていくような、そういうものが書けたらいいなぁと思っています。
言葉にすると変ですが、僕の感じる物語の中には貴方もいて、「何か」を共有してくれていると感じることがあります。
僕は人生そのものを大きな物語のように感じて生きていて、そこで出会った貴方と一緒に物語をつくっているように感じることがあります。
僕の勝手な妄想かもしれませんが、そう考えて生きていると幸せな気持ちになります。
だから、勝手な思いですが、これから生まれるであろう「小さな物語」を通じて貴方と幸せな気分を分かち合えたらなぁと願っています。
もちろん、この文章を読んで何を感じ何を考えるのかは貴方の自由です。
自由に楽しんでいただき、少しでも何かを感じていただくだけで、僕にとっては奇蹟といっていいような幸福です。
それでは、今回も本ブログをぜひご自由にお楽しみくださいませ。
貴方の人生の物語が、豊かに色づきますように。
プレゼントなんてね どっかで的外れ?
的外れがもし届くなら
君がそうキャッチしてくれたから
だけどね 今日も迷って探す日々が
きっと幸せだって気づいたから
少しだけ待ってて
『Present』 TOMOO
「まちをつくりたい」と思いながら、バスの窓際の席から東京の街を眺めていた。
「まちをつくりたい」と思ったのと同時に、「もうその街はここにある」と思った。
言葉にすると意味不明だけど、たしかにそう感じた。
窓の外でたくさんの人が歩いていた。
窓の外のあの人たちが歩いている街は「あの街」じゃないけれど、窓に映っているあの人たちが歩いている「あの街」は、もうすでに”ここ”にあった。
いつだって、「窓」には希望が映っていた。
代官山から洗足にむかう71番のバスに揺れながら、宮台真司さんと蓑原敬さんの『まちづくりの哲学』を読んでいた。
『まちづくりの哲学』を読みながら、「理想の街」について考えていたのだ。
どうすればみんなが幸せに生きられるか。
そういうバカみたいに真っ直ぐなことを考えている人が好きだ。
バカみたいに真っ直ぐなことを考えつつ、それを本気で実現しようと悪戦苦闘して、何度も失敗して、それでも懲りずに生きている人が好きだ。
失敗することを知っていながら、それでも本気で闘い続ける人が好きだ。
読書を中断して、左手にある「車窓」から外の景色を眺めた。
バスに揺られていたのだ。
バスが目黒通りに入っていくところだった。
目黒川が見えてきた。
目黒川の水位は低くて、「溢れる気配」なんてものは全くなかった。
ただただ穏やかに流れていて、その穏やかさを愛でるように、川の周りをお洒落な人たちがゆっくりあるいていた。
柵の前でたちどまって、川の様子を眺めながら指をさして笑い合っている老年の夫婦らしき人たちがいた。
あの夫婦に見えているものが何なのかはわからないけど、二人をみているとなんだか幸せな気分になった。
あの夫婦がいつもいつも仲良く幸せに暮らしているわけではないだろうし、きっとお互いに嫌気がさしたりすることもあるのだろう。
でも、あの二人は時々こうやって川を眺めたりすることで、お互いの「結びつき」を確かなものにしているんだと思う。
たとえばあのおじいちゃんが一人で景色を眺めていて、それはそれできっと幸せなんだろうけれど、そのときに感じられる幸せも、きっとあのおばあちゃんが与えてくれるものだ。
おばあちゃんと過ごした日々がおじいちゃんの「目」になって、おじいちゃんが眺める景色をかけがえのないものにする。
おなじように、おばあちゃんの「目」に映る景色がかけがえのないものになっているのにも、おじいちゃんが関係している。
おじいちゃんの目に映るかけがえのない景色と、おばあちゃんの目に映るかけがえのない景色。
二人が眺めている景色には、”あの二人だけ”に織りなすことのできる「何か」があって、あの二人が笑い合いながらさす指の先には、その「何か」があるんじゃないか。
あの二人が織りなす「何か」が、もしかしたら本当に世界を変えているんじゃないか。
なんとなくだけど、そう思った。
あの二人が眺めている”景色の先”に何があるのか今の僕にはわからないけど、僕の目に映る「川を眺めるあの二人」は絵になっていて、そういう「絵」を眺めることは僕にとって価値があることだと思った。
そういう「絵」をみて考えを深めていくことは、僕にとって価値のあることだと思った。
根拠なんてないけど、確かにそう感じた。
川のまわりにぶら下がっていた提灯が灯りはじめた。
祭りの季節だ。
人が賑わう川縁は夕焼けと提灯の灯りが混じり合った淡い光につつまれて、皆が楽しそうに歩いていた。
りんご飴を頬張る元気な女の子がわらっていて、彼女の友達もつられて笑っていた。
黄色のビニールテントに刻まれた「りんごあめ」という赤い文字がすこし燻んでいた。
燻んだ赤い「りんごあめ」は、夏の風に吹かれてすこし揺れていた。
燻んだ赤い「りんごあめ」も、笑った女の子が頬張るツヤツヤの「りんごあめ」も、どっちも好きだなとおもった。
さっきの女の子たちが、わざとらしくりんご飴を頬張る顔をしながら、”iPhone”で「自撮り」をしていた。
女の子たちは、撮った後の写真をみて、また笑っていた。
「めちゃくちゃ笑うやん」
と小さく呟きながら、僕もつられて笑った。