われわれ(詩人)は女のようなものだ。女はお産をする時は、もう二度と男の側に寝まいと誓う。しかもいつの間にか、また身ごもっている。
『ゲーテとの対話』(エッカーマン) ゲーテ
物語から降りるにはどうしたらいいんだろう。
知床斜里駅の待合所でスマナサーラ長老の説法を聴きながら「物語」についてかんがえていた。
あさ5時半ごろだった。
まえの日のよるに札幌を出発した深夜バスが知床の入り口についた。
始発の電車が、色々あって、「運休」になっていた。
次の電車が来るのは1時間以上先だった。
同じバスに乗っていたおじさんたちが待合所のベンチに腰掛けていた。
疲れた顔をしていた。
ふつうに生きていれば「トラブル」はどんな人の人生にもつきものだ。
というか、そもそも生きてること自体がちょっとしたトラブルみたいなものだと思う。
だから「運休」なんてものはかわいいもので、ちょっと休む時間をくれるのだからむしろ有難い出来事だと言えなくもない。
疲れたおじさんの顔をみて、世の中にはもっと「運休」があった方がいいんじゃないか、なんて思った。
疲れたら、「トラブル」にこじつけて、適当な理由をでっちあげて「運休」すればいい。
そうするほうが、長期的にみて「乗客」のためにも「交通状況全体」のためにもなる。
なんて「ストーリー」を、知床の入り口の駅で微睡みながら妄想していた。
サヨナラマイストーリー。
人はみな自分の頭の中で作り上げた妄想の世界に生きているらしい。
悩み苦しみの原因はその妄想にある。
だからその妄想をやめれば悩み苦しみは消える。
単純なことだ。
単純だけど、とてもむずかしいことだ。
ぼくは今のところ「物語」から完全にサヨナラする気もないらしいし、残念ながらその才能もないらしい。
ただ、「サヨナラ」とは言わなくとも、「物語」から離れていくことの価値は何となくわかるし、そうありたいと思っている。
けれども「物語には価値がない」とか、「人生(物語)には何の意味もない」とか、そういうのは言い過ぎだと思う(長老がいってるわけではない)。
すこし考えればわかるけど、そもそも「物語にサヨナラをする」ことの価値を伝えられるのも人生という物語があるからだ。
物語の世界にいなければ、物語の世界から抜け出すことの価値も伝えられない。
「”物語から抜け出す”という物語」に意味があることも伝えられない。
そういう点から、物語の存在は無意味でも無価値でもない。
とはいえ、「物語」に没入しすぎると疲れるのも事実だ。
多くの人が経験的に気づいていることだ。
疲れたらストーリーを「運休」にして、「レール」からいったん離れた方がいい。
乗りっぱなし走りっぱなしは色んなものを摩滅させる。
「運休」の仕方が上手な人の話を聴くのはやっぱり面白い。
「運休」が上手になってくると、たぶん、「物語から降りる」というより、「物語がより洗練される」という感覚をつかめるようになる。
人生に「運休」なんてない、というのがきっとほんとのところなのだ。
自分の中の何かは「運休」しても、他の何かは走り続けている。
それがきっとほんとのところ。
それは言い換えると、自分の中の一部は「物語」から降りても、他の部分は「物語」の中に残り続けるということだ。
物語それ自体は残るけれど、「物語を書く側の視点」が強くなる。
そういう部分もあると思う。
言ってみれば、役者目線より脚本家目線が強くなるということ。
そうなると、物語を一歩引いたところから観れるようになるのだろう。
逆に、引いたところにいすぎてつまらなくなったら、役に没入して演じたりもできるのだろうか。
役者であると同時に脚本家であることもできる。
そこが人間であることの面白さで、そこに人間であることの意味も価値もあるのだろうか。
よくわからないけど、ひとつ言えるのは、「物語の構造」は最初からある程度決まっているということ。
それは端的な事実で、なんでもかんでも好き放題に作り上げられるわけでも書き換えられるわけでもない。
なんでもかんでも好き放題に書き換えられるわけではないし、そもそも”0から物語を立ち上げる”なんてのはおそらく人間の役割でもない。
各々与えられたテーマがあるからこそ生まれる歓びもあるわけで、”0から1を生み出す”なんてそれこそ”無理な物語”を勝手につくりあげるのはやめた方がいい。
きっと、人間に与えられた「創造力」が向かうべき所は”1を0にもどす”方向にある。
まずはそっちだ。
何かを加えるのではない。
余計なものを減らすのだ。
余計なものを減らしていくと、そこに「何か」が現れてくる。
それを待つこと。
0にもどる努力をする過程で「何か」を思い出す。
「こたえ」はきっともうすでにあって、まずはそれを”思い出す”だけでいい。
「ブッダの教え」を聴きながらそんなことを考えていると、”乗車時間”が近づいてきた。
外はずいぶん明るくなっていた。
改札の向こうのホームは、どこにでもある朝の穏やかさに包まれていた。
心なしか、さっきのおじさんたちの顔も晴れやかになっていた。
いい天気の、いい朝だった。