高見の見仏

2023.07.05

この日は何かが違った。

昼前、セルボヌでお茶をしながら執筆した。店の前には桜並木があった。

開花の時期が過ぎさって、「次の準備」をしている木々を眺めた。

 

コーヒーを飲み終えて、窓の外にみえる「花のない木」が並んでいる道をぼんやり歩いていた。

”華のない木”だけど、それは”花を咲かせようとしている木”だ。

春を迎えるまでの時間を、一緒に過ごしているような気分になった。

まだ何も咲かせていない木々が、頼もしくおもえた。

 

職場の近くの神社に向かって歩いていた。八幡宮来宮神社。地図でなんとなくみつけて、行ってみることにした。

「この土地に鎮まっているのは何なのだろう?」みたいなことを考えていた。頭の中が、まだ、ごちゃごちゃしていた。

歩いていると「高見のシイの木」をみつけた。

太い木だった。幹が螺旋状に渦巻いていた。繊維みたいにいくつかの束が絡み合っていた。絡み合いながら、捻れていた。捻れながら、空の方に向かっていた。

 

ごちゃごちゃと考えること自体にあんまり意味はない。でも、ごちゃごちゃ考えることで進んでいく「何か」がある。

でも、その「何か」は、考えることでは届かない。その「何か」には、考えることでは近づけない。

 

そこに近づきたいと思うなら、考えることは”ほどほど”にしないといけない。言い換えると、”ほどほどに考える”ことには価値がある。

 

どこまでがちょうど良くて、どこからがやりすぎなのか。「ほどほど」を見つけようとしている。

 

「ほどほど」をみつけようとするとき、最初っから「あいだ」を探しても何もみつからない。「あいだ」にあるのは問題だけだ。

「ほどほど」をみつけようとするなら、最初は「やりすぎ」なぐらいがちょうどいい。「やりすぎ」で底の底までいけば、そこには「何か」が「別の形」で待っている。

「別の形」で待っている「何か」をボロボロになって見つけたなら、そこからは「帰り道」だ。

 

「行きはよいよい帰りは怖い」。

 

帰り道は、きっともっと険しいだろう。

 

シイの木を眺めながら、そんなことをごちゃごちゃと考えていた。丘の上に根を張ったシイの木。こいつは”高みの見物”をしているようだ。

ごちゃごちゃしたぼくの思考の渦も、こんなふうにいつか「一本の木」になればいいなぁと思った。

螺旋状に絡み合いながら、空に向かって束ねられていく。海の見える小高い丘の上で”高見の見物”をする日が、いつかやってくるだろう。

何の”根拠”もないけど、そんなことを思った。

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