スプトーニクの恋人

 

 

 

こんばんは。

いま、手元に村上春樹さんの『スプートニクの恋人』があるのですが、すこし前まで「スプトーニクの恋人」だと思っていました。

 

10年ぐらい前にもこの小説を読んだのですが、たぶんそのときからずっと間違えていました。

なんとなくこの「言い間違い」が気に入ってしまって、「もうずっとこのままでいいや」と開き直ることにしました。

はて、これは何の話なのでしょうね?

 

  

  

 

 

 

言葉を正確に使う。言葉の厳密な運用。

そんなことは可能なのだろうか。

頭の中がいつも混沌としているせいか、「秩序への欲求」というか、理路整然としたものに惹かれることがよくある。

 

あまりに理路整然としたものは”現実離れ”して実用的な価値を失うものばかりだとも思うけれど、それが実用的でなくても、ただそれが存在しているというだけで、感動したり感銘を受けたりする。

そこに美を感じたりする。

そこまでいかずとも、少なくとも大抵の場合「安心感」を得ることができる。

 

理屈というものが毛嫌いされることがある。

理屈というものは「冷たさ」を感じさせることが多い。

 

「人情」という言葉と「理屈」という言葉はあまり似合わないらしい。

たしかに、人情という言葉には「冷たさ」より「温かさ」の方が似合う。

いま、”似合う”という言葉で形容している主体である僕の内側にある感覚も、「理屈」よりも「体感」というものに近い何かで、その感覚を理路整然と語ることは難しい。

 

ただ、その感覚を理路整然と語りたいという欲求のようなものもそこにはあって、それは「体感」というものによってどこか内面的に”押しつぶされそうになっている部分”があるからだと思う。

「情動」という言葉があるけれど、あまりに情が激しく動いていると、そこで溺れそうになる。

 

以前は「感情に飲まれるな」という言葉には、何方かと言えばネガティヴな印象を抱いていた。

けれど、あまりに激しい感情の波に身を晒すような経験のあとでは、そのネガティヴな印象が変化する。

熱いところに身を置き過ぎると、冷たいものの価値がわかってくる。

むしろ「冷たい」ものの方が”人間味”があるように感じられることがあって、こういうふうに感じているときは、「温かさ」より「冷たさ」の方に優しさを感じる。

 

どちらが正しいという話ではないけれど、「理屈」を無視して何でもかんでも「感情」だけで決めようとするような、そういうのが間違っていることだけは確かだと思う。

 

カフェの窓辺で温かいコーヒーを飲みながら外を眺めていると、さっきまで止んでいた雪が再び降りはじめた。

さっきよりも水気のない凍りっぽい雪を眺めていると、なんだか安心した。

 

雪みたいな理屈が欲しいと思った。

フラクタルな結晶。

その美。

ああいうものを構築してみたい。

 

 

 

 

 

 

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