ターコイズの箱

今日は、暑かった日々が去ったことに想いを馳せた。

 

引越しの準備をしていた。住み慣れてきた部屋のなかで荷造りをした。慣れたころに別れがくるのは、もどかしい。

「お別れ」が苦手だ。人生は出会い別れの連続で、これまでもいろんな人と出会い、いろんな人と別れた。たくさんの出会い別れを経験すると、出会いにも別れにも慣れてくる。

慣れてくるけれど、やっぱり出会いは嬉しいものだし、別れは寂しいものだ。ぼくのなかの冷たい部分は、出会いにも別れにも慣れてる。そんなのへっちゃらだと思ってる。

でも、ぼくのなかの温かい部分は、出会いを喜び、別れに苦しんでる。

別れはたいてい、慣れたころにやってくる。きっと、本当は「慣れ」なんて存在しないのだ。そんなものはただのごまかしで、そのごまかしに気づかせるために神様が「別れ」をつくったんじゃないか。

 

「次の生活」にも必要になる荷物を段ボールにつめた。その段ボールを、クロネコヤマトまで持っていった。

クロネコヤマトに荷物を預けていると、ショウさんに会った。近所にあるカフェ、「sea the forest」の店長さん。

ショウさんに会い、アタマに「海の森」という言葉が浮かんできた。「伊豆高原に来たのは、海の森で学ぶためだったんだよ」と神様から「お知らせ」が届いたのだ。

ヤマトを出たあと、赤沢温泉で海を眺めて伊豆高原での最後の休日を終えようと思っていた。だけど、「お知らせ」が届いたので、予定変更。予定変更がスタンダードなので、「変更」という言葉が合っているのかどうかは微妙なところだ。

来宮神社に参拝して、八幡野港に行くことにした。このルートがいちばん、「海の森」を感じられる。

 

ぼくはたぶん、「海の森」を学ぶために伊豆高原にきた。始まりでもあり、終わりでもあるような場所としての海。その始まりでも終わりでもあるような場所としての海の中にある森。ただただ意味もなく始まって終わるのではなく、始まりと終わりの中には、森がある。意味の森がある。

そう、森は「意味」を生やしているのだ。海の中には、「意味」がある。

 

何事にも始まりと終わりがあって、もし始まりも終わりもなければ、喜びもなければ悲しみもない。始まりがあって終わりがあるから、喜びや悲しみがあって、優しさや懐かしさもうまれる。

森の優しさ。海の懐かしさ。懐かしさの中に優しさがあって、優しさの中に懐かしさがある。

 

八幡野港で海を眺めながら、片付けの最中に押し入れの中から出てきた「ターコイズのアメスピ」を吸った。

海の上の空は曇っていた。海から視線をはずし、後ろを振り返った。この日、夕日が照らしているのは遠くに見える「森」のある山の方だった。山を眺めながら、水平線の向こうからこちらを照らしていた「夏の海」を思い返した。

波の音を聴きながら山を眺めて、「暑かった日々」が去ったことを、たしかに感じた。

ターコイズのアメスピの箱をバッグにしまい、「これはここに置いていこう」とおもった。

家に帰って片付けの続きをしようと思い、立ち上がった。目の前に見える山の背景は、赤く染まっていた。

きっと、冬も乗り越えられる。

暑かった日々を乗り越えた自分を誇りに思い、次は冬を越えようと誓った。

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