ボウズ

 

 

 

今日はバイトが休みで、朝から二子玉川に行った。

カバンに辻村深月さんの『ツナグ 想い人の心得』を詰め込んで、電車の中で読んでいた。

前作の『ツナグ』は、高校生のときに読んだ。

 

ぼくの通っていた高校には、朝課外(通称0時限)というものがあった。

1時間目が始まる1時間半前の7時30分から朝課外は始まる。

何故に参加しなきゃいけないのかわからない謎の授業だった。

 

『ツナグ』は”謎の授業”が始まる前の教室で、当時の彼女が貸してくれた小説だった。

ただでさえ始まるのが早い朝の時間に早起きして、「0時限」の前に彼女と色んな話をしていた。

『ツナグ』は、そのときに貸してもらった思い出の一冊だった。

 

辻村さんの小説を読んだのはその時の『ツナグ』が初めてで、そこから他の本もたくさん読んだ。

凍りのくじら』とか、『スロウハイツの神様』とか。これもまたちょーイイのだ。

 

『ツナグ』は辻村さんの他の小説とはすこし毛色が違っていて、わりと「ベタな感情」がしっかり描かれている。

この「ベタな感情」の描き方がとてもいい。

 

 

いま、スタバのテラス席でコーヒーを飲んでいる。

日陰で夏の風にあたっている。

夏の風にあたりながら、あることに気づいた。

 

前に『ツナグ』を読んだときと、続編の『ツナグ 想い人の心得』を読んでいる今、同じ髪型をしている。

このまえ久しぶりに頭を丸めて、「ボウズ」にしたのだった。

丸刈りの野球少年だった10年前のことを思い出すために、無意識が10年後の今の自分に「ボウズ」にするように仕組んだのだろうか。

この前なんとなくボウズにしたのだけど、その「なんとなく」の正体は、10年前の自分の”情況”に関係しているのかもしれないと思った。

10年前の”情況”が、「なんとなく」を運んできたのかもしれない。

そう思った。

 

スタバで「抹茶スコーン」と「クッキークリームドーナツ」を食べた。

糖質とか小麦とかを断つのが食生活の基本方針なのだけど、思いっきり無視してしまった。

 

なんだか「罪悪感」が湧いてきた。

だけど、ふと冷静に考えて、なんでいちいち「罪悪感」なんか感じなきゃいけないんだろうと思った。

これは誰に対する何の「罪悪感」なのだろうか。

何の罪?

 

心の奥底に溜まっている「罪悪感」にどうやって対処すればいいのか。

それをずっと考えている。

いまもそれを考えていて、そしてなんだかムカついてきた。

 

罪。

そんなもの知ったこっちゃない。

そう思うことがある。

とはいえ、そう思うことで「罪悪感」が消えるわけではない。

悲しいかな、感覚は消えない。

 

だけど、「罪悪感」と同調して俯き加減で生活するのはバカバカしいし、もっと「罪悪感」を突き放して、堂々と「罪」を背負って生きていったほうがいいんじゃないかと思えきた。

誰の何に対する「罪」なのか知らないし、なんでそれが自分の中にあるのかわからないし、だけどそれはもうすでに自分の中に根付いてしまっている。

その根付いたものに巻き込まれるのはバカバカしいけれど、あるものはあるものだと認めて、「なぜそれがあるのか」と問うよりも、「それとどう付き合えばいいのか」を考えた方がいいのかもしれない。

「自分が悪い」とか「誰かが悪い」とか、そういうのも、どうでもいい。

そして、「自分が悪い」と思った方が情況がよくなるのならそう思えばいいし、「誰かが悪い」と思ったほうが情況がよくなるのならそう思えばいい。

ともかく、「それが”ある”と感じている」という事実は変わらないのだから、その事実を一旦背負い込んでしまった方がいい。

背負い込んで開き直るのがいい。

無理にかき消してしまおうとするのも変だし、全く無視するのも変だ。

そう思う。

 

 

そういえば、最近の高校野球では「みんなでボウズにするチーム」が減っている。

「丸刈り文化」の衰退。

いやはや、素晴らしい。

 

 

 

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