デジタル

 

 

 

おはようございます。

体調いかがですか?

 

と、以前尊敬する人に初めてお会いしたときに一言目にお声かけいただいて、そのときの印象が残っているからか、このブログで真似してしまっています。

 

僕は「感染体質」とでもいうべき気質を持っていて、「この人は凄い、、、」と思える人に出会うと、気づくとその人の真似をしてしまっています。

体が勝手に動くというか、無意識についつい模倣してしまうのです。

この感染体質に関しては、「自分の”独自性”が消えていくようで嫌だな」と思ったりすることもあるのですが、「感染的模倣」のようなものが、ある意味では独自性を育む一つの手段なんだと理解しているつもりなので、自分に与えられたこの気質を活かして生きていきたいと思っています。

 

話がちょっとズレるのですが、古代ギリシアの演劇で重要視される徳目があって、その徳目に「感染」も能力として含まれるみたいです。

「アナロギア(類推)」、「パロディア(諧謔)」、「ミメーシス(感染)」が古代ギリシアで演劇をする役者や劇作家に求められる資質だったらしいのです。

これは演劇に限らず芸術全般にも言えて、何か”劇的なものを再現する”際に求められる技能みたいなんですね。

 

僕がこれを初めて知ったのは学生時代に東京に住んでいた頃で、近所の代官山蔦屋で初めてセイゴオさん(敬意を込めて愛称。セイゴオさんにはこのトピックでこれからたくさん登場してもらう予定です)の本を読んだときで、全身がビリビリするような、ちょっとした失神を起こすような感激が訪れました。

自分の人生で根幹に据えるべきものに出会えた瞬間なんじゃないかと思っていて、このときの衝撃は僕の意識に今も残響しています。

 

初めて読んだセイゴオさんのその本は『デザイン知』という千夜千冊のエディションのひとつです。

僕が初めてセイゴオさんに出会ったのは、リテラル(文字)なものを通してではなくヴィジュアル(絵)なものを通してだったのです。

実際、セイゴオさんの本の装丁はどれも素晴らしく、手元に置いておくだけでもフェティッシュな感覚が燻られて、もはや官能の域です。

本のエロスが充溢しています。

  

マテリアルな本だけじゃなく、電子空間の中にもエロスの放電があって、それがつまり千夜千冊で、僕は千夜千冊という電子の海の中に入り浸ってしまい、還る場所がわからなくなりました。

オデュッセウスもビックリです。

松岡正剛というヴァーチャルな言語的水先案内人に惚れ込んでしまったんですね。

実際、本人の姿を直接拝見したこともあるのですが、ほんとにカッコよかったです。

 

あ、話がズレてますね。

戻しましょう。

 

セイゴオさんの案内では、リテラルな表現に向かった「エディティング(編集)」とヴィジュアルな表現に向かった「デザイン」の底辺には共通項があって、その共通項が古代ギリシアのアナロギア、パロディア、ミメーシスらしいのです。

「編集」や「デザイン」と「作劇」は、深いところで繋がっているんですね。 

僕が面白いと思ったのは、セイゴオさんが”デザインの本質”を「脱しるし」と表現していたところです。

 

デザインは、目に見える「しるし」を脱するために「しるし」をつけていくというアクロバティックな営みなんですね。

この「脱しるし」という言葉に出会って、何かにつけて言い得て妙だなと思う場面に何度も出会しました(混乱する場面もまた)。

この才能に恵まれた人と実際に関わり合ってみると、「人間としてこの世界を生きる」ということの本質がここに詰まっているんじゃないかと思わされていました。

そして、つい最近そのことをさらに深く確信させてくれるような、人間という存在の核心に触れさせてくれる古代ギリシアにも造詣のあるハンナ・アーレントという思想家に出会ったのですが、この話をすると長くなりそうなので、またいずれ紹介させてもらいますね。

 

 

 

それでは、今日は電子の海を揺蕩いながら、春の息吹を感じようと思います。

心華やぐガーベラの香りを思い出しながら。

 

 

 

淡き光立つ 俄雨

いとし面影の沈丁花

溢るる涙の蕾から

ひとつひとつ 香り始める

 

春よ、来い』 松任谷由実

 

 

 

 

円通寺の桜を観ながら、久しぶりに『外は、良寛。』を読んでいた。

岡山の玉島にある若かりし良寛が修行をした禅寺は、港の見える丘の上にあった。

 

 

散りゆく桜。

風が吹く。

花びらが揺れる。

ほんの少しだけ。

微細な振動。

弱っちい痙攣。

震える手を、隠さない。

モノトーンな風景。

とびとびのリズム。

花びらの隙間。

スカスカな合間。

そこで、良寛が笑ってる。

月のように。

 

 

 

良寛は、リズムの人だった。

いつも「何か」の”おとづれ”を聴いていいた。

音連れ。

 

良寛は「無」を託ってはいなかった。

むろん「無」をみつめていたけれど、そこから溢れてくる「音」にいつも耳を済ましていた。

そのリズムを、歌や書に託していた。

 

そのリズムはデジタルだ。

離散的で、ひとつひとつの音が「とびとび」だ。

あいだが、スカスカなのだ。

セイゴオさん曰く、「差分的」らしい。

差分は、微分にくらべて厳密性を欠くみたいだ。

そこでは、「完全な答え」なんて求められていない。

「極限操作」なんてしない。

「近似」に身を任せてる。

 

差分方程式は、カオス理論で用いられる。

カオスとフラクタル。

雪の結晶。

 

 

非線形に、あちこち飛び跳ねながら音を奏でている。

音を連れ立って、線を描いている。

規則的に循環するような周期的な軌跡でもなく、でたらめに描かれた乱雑な軌跡でもない、中間的な軌跡。

あいだにある軌跡。

それが積もっていく。

奇蹟。 

 

 

セイゴオさんが案内する良寛に「何か」を学んでいる。

読み返す度に印象が変わる。

良寛は、モノトーンだ。

色彩豊かな感じはない。

なのに、温かい。

デジタルなのに、温度がある。 

 

基本は「冬」だ。

でも、いつも「春」の香りがする。

淡雪の中に、桜も舞い散っている感じ。

春の雪。

冬の桜。

 

 

「デジタル」に「温度」を持ち込む方法って、ないのか。

ずっと考えていたけれど、良寛から学ぶべきことのひとつが、そこにある気がした。

それが最近、すこし見えてきた。

 

 

 

IT革命など、最初からない。

20年前から、わかっていたこと。

みんな、さすがにもうわかった。

大事なのは、テクノロジーそれ自体ではなく、それをどう使うか。

結局は想像力と創造力だ。

心から想って、本気で作る。

それだけ。

 

 

ITで簡単に読み取れる情報ほど当てにならないものはない。

本当に大切なものは、インターネットに流れたりしない。

ノイズだらけのSNSをみれば誰でもわかる。

 

でも、大切なものの断片を”しるす”ことはできるとおもう。

経験上、そう思う。

ここに、インターネットの可能性と限界のひとつがある。

そんな気がする。 

 

結局はオンラインとオフラインのバランスだ。

なんでもかんでもオンラインですむわけがないし、オフラインだけで生きていくというのは非現実的すぎる。

オンラインでやるべきこととオフラインでやるべきこと。

そこの見極め。

 

オンラインでもかなり「対話」は深まるけれど、それでもやっぱり無理なことはある。

「言葉」にはそもそも解釈の多義性があるから、たくさんの誤謬を生むことは避けられない。

会って話せばすぐに済むことなのに、誤解が誤解をうんでわけのわからない状態が生まれることもしばしば。

 

とはいえ、その「多義性」があるからこそできることもある。

ひとつの言葉がひとつの意味だけを指示しているわけではなく、たくさんの意味を示しているということを表現することができる。

意味の重なりや、意味の連なりを表現することができる。

とはいえ、そこにもやっぱり誤謬は混じってくる。

結局は、一長一短なのだ。

 

人が持つ「気配」のようなものは、”まだ”オンラインにはならない。

”しるす”ことができるだけ。

オンラインで対話を重ねつつ、オフラインで直接会って話し合う。

そこでうまれる「何か」がある。

 

 

晩年の成熟しきった良寛にやはりとても惹かれる。

翁童性の極北のような存在。

幼なごころを持ったおじいちゃん。

 

ただの禅僧ではなく、世の中に混じって活動した禅のアウトサイダー。

禅に自分をおさめきれなかった人。

ポカポカした、優しいドロップアウト。

 

良寛は自分のことをあまり語らなかった。

でも、話をするのは好きだった。

余計な話をするのが好きじゃなかったのだ。

 

いつも、大切なことを語り合おうとしていた。

人や物を大切に思う気持ちをごまかさなかった。

 

 

良寛に学びながら自分のことを省みると、まだ、何かが間違っているように思える。

まだ、やるべきことをやれてない。

まだまだ、やらなくていいことをやっている。

自分と向き合い、人と向き合い、物と向き合い、すこしずつでも歩みを進めて、大切なものを取り戻したい。

 

 

 

 

 

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