②岡山紀行

2022.11.03

 

 

 

岡山についた。

こじんまりとした空港内をすこし歩き、バス乗り場に向かった。

リムジンバスで岡山駅まで行く予定で、運が良ければ飛行機を降りてすぐにバスに乗れるはずだった。

 

バス停につくと6人ぐらいの集団旅行者たちがバスの前に立っていて、運転手っぽい制服をきた男の人と何かを話していた。

バスのなかを覗くと人がいっぱいいっぱいだった。

「たぶん次の便を待たなきゃいけないだろうなぁ」と思った。

 

50分ぐらいの待ち時間に何をしようかと考えはじめると、制服をきた男の人に「後ろのお二人、乗ってください」と言われて、ぼくともうひとりの女の人がバスに乗れることになった。

2席ぐらいの空きがあって、6人全員は乗れないから先に僕たちを乗せることになったらしい。

「集団」で動くと、こういうときに不便だなぁと思った。

 

バスに乗り込んで空いている席を探した。

後ろらへんの左側にスーツ姿の20代前半ぐらいの兄ちゃんが座っていて、その隣に座ることにした。

 

ぼくが席に座ろうとすると隣の彼が「荷物が大きくてすみません」と言った。

すこし驚きつつ、「いいえ、全然大丈夫です」と答えた。

そんなことをわざわざ言われると思ってなかったから、すこし驚いた。

彼の荷物は綺麗にまとまっていた。

 

吉福さんが、「社会的な規範、ノームを身につけた上でそれに縛られることを良しとしない人に惹かれる」と言っていたのを思い出した。

礼儀とか挨拶とか、そういうものをちゃんと身につけていないと気持ちよく生活できないし、だからと言ってそういうのに捉われて生活しても気持ちよくない。

気持ちよくないことはだいたい間違ってる。

気持ちよければいいというのも違うけれど、気持ちわるいことを捨てていくことが、人生を心地よくするコツだ。

 

席に座って周りを見渡した。

窓の外は日本中どこにでもありそうなコンクリートと植物が並んだ風景だった。

実家の近所のゴルフ場の近くみたいな風景だった。

昔よくこんな風景のなかでランニングをしていた。

どこか懐かしさを感じた。

心の奥の方にしまい込んだ「何か」に風が当たって、どこか気持ちよかった。

窓の外に見えるこの画は、どこにでもある風景だけど、きっと自分以外の人には見えない風景だ。

 

バスが走り出して、前の方の席のすこしぽっちゃりしたお兄さんの方をみた。

彼はスマホを取り出してイジり始めていた。

チラッと見えた画面には、『紅の豚』のサントラが表示されていた。

 

孤独な飛行機乗りの豚。

孤独にランニングをした記憶。

孤独の記憶が重なっていく。

寂しさやら虚しさやらを無理やり包んだ記憶が重なって、頭のなかで柔らかくて重みのある音が鳴っていた。

孤独な音の調べに抱かれるように、バスが静かに揺られるように進んでいる。

 

あの頃の夜のような孤独にもう一度誘われているのだろうか。

それとも陳腐なドラマに浸って孤独ぶるのはよせと言われているのか。

 

「彼」に問われている気がした。

静かに揺れるバスに身を委ねていると、どっちでもあるような、どっちでもないような気がした。

こんなこと考えてもしょうがないと思って、バスの到着時間を確認し、目を瞑った。

 

岡山駅についた。

どこにでもありそうな駅周辺の風景。

どこにでもありそうな風景に淡々と目を向けながらも、壁に刻まれた「岡山駅」という文字を見ると、「おぉ、ここが岡山か」というちょっとした感慨のようなものを感じた。

 

初めて来た街の大きな駅にくると、近所をぶらぶら歩きたくなる。

早めに児島駅に行ってランチをとる予定だったから、街ぶらは見送った。

その変わりというわけでもないけれど、駅のエスカレーターをあがりながら、首を「鶏」みたいにカクカク振りながら、周りの店や人を「本」のページをパラパラめくるように見渡した。これぞ立ち読みだ。

「時間があったらちゃんと読みたい本」みたいな岡山駅には、いつか時間を見つけてもう一度行こうと思った。

 

 

 

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