日曜日の午後、渋谷駅にいた。
帰りのバスがくるまでに時間があった。
帰りの時間まで、バス停のまえの「渋谷ヒカリエ」で過ごすことにした。
ヒカリエの一階は香水の匂いがプンプンした。
このデパートの一階のすこし刺激的な香りは、何かに似ていた。
その刺激は、”寝ぼけ眼”で飲むコーヒーみたいだ。眠たい気分を覚ましてくれる刺激。
それは、あるいは別の何かにも似ていた。
カーテンの隙間から差し込んでくる光。
朝、布団の中で微睡んでいるときに差し込んでくる光みたいだった。
その光は、「眠たい自分」を起こそうとしている光だ。
「眠たい自分」を起こそうとするそれは、暗い部屋のなかの「埃」を明るみに出していた。
「スポットライト」みたいに真っ直ぐ伸びていた。
その真っ直ぐ伸びた光の中で、埃が舞っているのが見えた。
誇らしげな埃だった。
エスカレーターで「上の階」に上がっていた。
まわりのお客さんが女性ばかりだった。
入るまえからここのお客さんは女性ばかりだとなんとなくわかっていたし、入った瞬間にそれには気づいていた。
気づいていたのだけど、エスカレーターが登っていくスピード感に身を委ねていると、その「気づき」に輪郭ができてきた。
エスカレーターで上に登りながら、「”気づく”とはどういうことだろう」と考えていた。
抽象的すぎる。
頭の中がごちゃごちゃになりそうな問いだ。
頭の中がごちゃごちゃになりそうな、そういう「面倒な問い」をついつい問うてしまう。
「面倒な問い」を頭の中に巡らせていると気分が微睡んできた。
余計なことを考えていると眠くなってきた。
人間はたぶんそういう風にできている。
「余計なことを考えてもいいことなんてない」と、体が教えてくれているのだ。
体は、そういう風にできている。
余計なことを考えて眠くなっているとき、「何か」が頭を過った。
エスカレーターを登りながら微睡んでいると、「何か」が真っ直ぐに差し込んできた。
”閃いた”のだ。
「エスカレーターって箱ティッシュみたいだ」と思った。
6階でエスカレーターを登り切ったあと、トイレに向かっている途中でそう思った。
エスカレーターの、右へ左へと折り畳まれる構造が「箱ティッシュ」みたいだと思った。
その「折り畳まれた場所」から離れてトイレに向かったとき、そう思った。
何気ない場所で、何気なく待機している。
エスカレーターは”何気なく待機している”感じもする。
エスカレーターのそういう部分が、ティッシュに似ていると思った。
エスカレーターの一番上の部分。
「折り畳まれた構造」の終焉。
その「終わりの場所」がティッシュみたいに真っ白でヒラヒラしていたら、どうなるんだろうと思った。
きっと、だれもそこから降りたくなくなるだろう。
だから、エスカレーターは”どこでも降りれる”ように「区切り」を設けているのだろう。
折りたたんで「区切り」をつけているんだろう。
そう考えると、適度に「降りれる場所」をつくっているエスカレーターは優しいやつなんだと思った。
トイレから出て、もういちどエスカレーターに向かった。
今度は下りだった。
途中でチラッと店の前の看板がみえた。
写真が貼ってあった。
そこに貼ってあった、「タコ飯」みたいな写真が印象に残った。
ムズムズする鼻をかむみたいに、「今度はあそこに行ってみようかな」と思った。
「今度はあそこに行ってみようかな」と、心のなかで言葉にした。
言葉にすることで、ぼんやりした気持ちをゴミ箱に捨てたのだ。
ぼんやりした気持ちを捨てると、やっぱりスッキリした。
気持ちが軽くなった。
余計なものを鼻をかむみたいに捨てると、体も軽くなった気がした。
言葉にすることはティッシュで鼻を噛むのと同じようなものだ。
真っ白でサラサラした柔らかい紙。
その紙は余計な言葉を包んでくれる。
余計な言葉を包んで、身を捨てるように丸まってくれる。
真っ白で柔らかな、吹けば飛ぶような存在の重み。
ティッシュの重みを感じながらヒカリエを出て、バス停にむかった。
渋谷駅東口のバス停には、香水の匂いが微かに残っていた。
甘ったるい香りが、夕方に混ざっていた。
街を歩く人たちの足取りが、心なしか軽くなっているように思えた。
渋谷の夕方はすこし甘ったるかった。
甘ったるくて、すこし軽い夕方だった。