ピーチルイボスティ

2023.6.27

 

 

 

チェックアウトをすませて、鎌倉駅へ向かった。

朝の鎌倉は、「通勤の人」でごった返していた。

鎌倉の古風な海街の雰囲気のなかに「通勤の人」がたくさんいるのが、なんだか面白かった。

街はおだやかなのに、そこを歩く人たちはせわしない。

でも、もっと遠くからみると、この”忙しなさ”もおだやかさに包まれているんじゃないかと思った。

 

たとえば自分が鳥になったとする。

鳥になって、上空100メートルくらいの高さからこの街を眺める。

そこから眺めると、歩く人の群れは、すぐそばの海の波と同じように、ただただ右から左に流れているだけにみえるだろう。

おだやかに、ただただ右から左に流れるだけ。

波のように、ただただ流れるだけ。

波のような人の流れ。

 

その波のような人の流れは、近くからみると忙しなくみえる。

でも、遠くからみると穏やかにみえる。

視座をかえれば、「見え方」がかわる。

 

見方を変えれば見えるものが変わる。

そういう当たり前のことを、生活の中で実際に当てはめるのが、たのしい。

 

人が密集している朝の鎌倉駅に歩いてちかづき、改札口をとおった。

カードをタッチしたあと、財布をポケットにしまいながら、エスカレーターでホームに向かおうとしていた。

そのとき、ボタッと音がした。何かを、落とした。

 

うしろを振り返ると、グレーのパーカーをきた女の人がいた。

メイクの薄い、胸元がはだけた女の人だった。

彼女は、朝の鎌倉駅の”忙しなさ”とは無縁な雰囲気だった。

ふんわりしているのに、サッパリしている。そんな雰囲気だった。

 

グレーのパーカーのお姉さんが、ペットボトルを渡してくれた。

それは、ぼくが落とした「ピーチルイボスティ」だった。

ピーチルイボスティを拾ってもらって、「忙しなさのなかにある穏やかさ」を感じた。

「ただただ穏やかであるよりも、忙しなさの中で感じる穏やかさの方がいい」と思った。

  

鎌倉駅から、「次の職場」がある伊豆高原駅へ向かった。

新しい生活がはじまるときは、気持ちがいつもより大きく動く。緊張したり、ワクワクしたりする。

ただ、今回の「新しい始まり」には、あまり緊張はなかった。ワクワクもそれほどなかった。

気持ちは”穏やか”だった。

 

「新しいことを始めるのに慣れてしまったのだろうか」と思った。

新しいことを始めては辞めてを忙しなく繰り返している。

忙しなく「新しい始まり」を迎えると、その中にある「穏やかさ」も感じられるようになってくる。

 

ワクワクするでもなく、緊張するでもない、新しい始まり。

そういう新しい始まりは、自分が「何か」を失ってしまったようにも感じて、すこし虚しかったりする。

「いつも新鮮な気持ちでいられたらいいのになぁ」と思うけど、それは結構むずかしい。

 

「新鮮な気持ち」を感じられなくなって、虚しくなる。

でも、その虚しさにも意味はある。

その虚しさは、次の「何か」が入ってくるための”ポケット”のようなものだから。

 

 

ズボンのお尻のポケットに無理やり突っ込んだペットボトルを取り出した。

ピーチルイボスティを飲みながら、次の電車を待った。

グレーのパーカーのお姉さんも同じホームの遠い場所で次の電車を待っていた。

 

鎌倉駅の朝のホームは、穏やかだった。

 

 

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