「疑心暗鬼」という言葉がある。
疑心暗鬼という言葉は、斧をなくした男が隣の家の息子を疑いだすと全てがあやしく見え、疑いが晴れるとあやしく見えなくなったという話に由来しているらしい。
こんな経験って、たくさんある。
疑心暗鬼に陥ったときの、あの気持ちわるい感じ。
真夏の蒸し暑い日に泥沼でもがいているようなあの感覚。
あれは、何かを恐れているというより、何を信じたらいいかわからなくなってフラフラする感覚みたいだ。
あのフラフラする感覚は、ある意味では「熱中症」みたいなものだ。
頭のなかで膨大な観念が錯綜する。
ファンが頭を冷却しようとしてブンブン回っている。
熱くなりすぎていて、なおかつその熱が行き場を失っている。
そんな感じ。
タチが悪い熱気。
熱鬼。
あれは鬼だ。
今日はバイトが休みだった。
朝起きて細田守の『竜とそばかすの姫』をみた。
やっぱり細田作品はとてもいい。
きょうも泣いてしまった。
映画のなかに出てくる「竜」が印象的だった。
作品のなかで重要な意味をもつ竜。
今の自分にとっても、竜は大きな意味を帯びた象徴だ。
映画の物語と自分の人生の物語が、”反射”し合っていた。
陽が射した海みたいな物語だった。
眩しかった。
キラキラしてクラクラした。
沖縄旅行の初日に「リウボウ」という県庁の真ん前のデパートに行った。
”竜の坊ちゃん”みたいな名前のデパート。
本屋に行きたくて、このデパートに入った。
旅先で出会った本には旅の記憶が重なる。
旅から帰ったあと、旅の”残響”を本を通して感じる。
リウボウの本屋で柳田國男の『海上の道』を探した。
だけど、なかった。
沖縄でこの本を買えたら、思い出にいい”響き”が出るだろうなぁと思った。
そんなふうに妄想を膨らませていた。
でも、なかった。
残念だ。
まぁしょうがないと思って、Kindle版の『海上の海』をダウンロードした。
紙がなくても電子がある。
ありがたき電子の世界。
バックアッパーKindle。
守り神Amazon。
沖縄に伝わるニライカナイ信仰が好きだ。
リウボウを出て高速バスで宿に向かった。
そのあいだ、ニライカナイについて色々考えていた。
夕暮れ前に着く予定のバスで『海上の道』を読みながら、ニライカナイについて考えていた。
これから泊まる宿の真ん前は海だ。
南東の方向に、夕日が沈んでいくのを想像していた。
聞き慣れない珍しい地名のアナウンスを耳にしながらバスに揺られていると、このバスもある意味「海上の道」だなぁと思った。
「あそこ」に続く道。
信仰に正しいも間違いもない。
物語に正しいも間違いもない。
だけど、自分のなかには自分なりの「ただしい」や「まちがい」を持っていないと、人生という海では溺れてしまう。
疑心暗鬼の鬼に拐われ、竜につれ去られる。
海は綺麗なだけじゃない。
人生にはやっぱり「美学」みたいなものが必要なんだと思った。
美しいだけじゃなく、美しさの向こう側で佇んでいられるような、芯のような何か。
美しい夕日を眺めるための、港のような、地に足のつく場所。
宿について、浜辺に出た。
沈んでいく太陽をずっと眺めていた。
遥か遠い東の海の彼方。
辰巳の方角。
美しいもののなかにある、美しい以上のもの。
いろんな人が繋いできた物語。
海の彼方にある、美しい以上の美しさ。
人生という海をわたっていけるように、向こう側で待ってくれているもの。
その道を照らしてくれる太陽。
いつか、海上の道を、爾とわたっていけるだろうか。