ガラスの海

2023.06.29

 

 

 

あさ、洗濯物を干していた。

ぼくの部屋はとなりのアパートに面している。

ベランダの物干し竿をかける「フック」は、となりのアパートのすぐ近くにあった。

その「フック」に、きのう届いた「洗濯用ロープ」を結んでとりつけた。

 

家と家のスキマにロープをかけながら「このジメジメした薄暗い”隙間”で大丈夫か」と、ちょっと不安に思った。

不安に思ったけど、他に取りつける場所はなかった。

ここで生活するのが運命なのだ。飲み込むしかない。

 

洗濯バサミをロープのフックに掛けた。

ベランダのフックに掛かったロープのフック。

フックのフックに洗濯バサミをかけた。

二重のフックに引っかかった洗濯バサミで洗濯物を干すことになった。

洗濯機でビショビショになった洋服たちは、”引っかかりやすい”奴らなんだろうか。

 

騙されて、悔しくて、それで泣いているからビシャビシャになるのだろうか。

洗濯機でぐるぐる廻ってるあいだに、悔しいことや悲しいことをたくさん思い出していたのだろうか。

陽の光でカラッカラに乾かしてやろうとおもった。

 

午後からは仕事だった。

駐車場の案内の仕事を習った。

車を「駐車スペース」まで「誘導」する仕事だ。

「誘導」という言葉は、なんだか言葉として強すぎるように感じる。

「案内」の方が優しい。

なるべく優しい言葉に触れていたい。

 

でも、「案内」という言葉は嘘っぽい。

嘘っぽくて、なんだか湿っている。

この言葉を纏いすぎると、ビチャビチャして気持ち悪くなりそうだ。

やっぱり「誘導」の方がいい。

強くて”差し込んできすぎ”な感じがするけど、「乾いた服」は着心地がいい。

「乾いた言葉」は肌触りがいい。

 

なんでこんな「どうでもいいこと」はペラペラ言えるんだろう。

と、今、書きながら思った。

 

最近ほんとうにいつも思う。

どうでもいいことはずっと書けるし話せる。

でも、大事なことが全然でてこない。

出てきても、言葉になったとたんにどうでもいいものになってる。

 

言葉に対する不信感が強すぎるのだろうか。

いや、そうじゃない。

ただ、言葉の海で、うまく泳げなくなっただけだ。

言葉の波に、うまく乗れなくなっただけだ。

 

言ったそばからどうでもいい比喩ばっかり浮かぶ。

浮かんでくるのは死体のような言葉だ。

ブヨブヨの水死体。

 

もうすでに肺はつぶれている。

呼吸はとまってる。

死んでいる。

それは死体捜索のための水難救助だ。

  

ライトが虚しく海中を照らしている。

遭難者が発見できても、そこにあるのは死体だけ。

そこにあるのは死体だとわかっていても、引き揚げずにはいられない。

「もしかしたら生きているのかもしれない」と、ありもしない期待をする。

人間の想像力は残酷だ。

ありもしない期待をして、実現しない想像によって自分を絶望に導く。

 

どうしてありえないものを望むのか。

どうしてダメだとわかっているのに引き揚げようとするのか。

どうして、どうして。

それを言ってばかりの人間。

「どうして」と言ってばかりなのはどうして?

 

悲しくはない。

いや、きっと海の底の深いところで悲しんでいる。

きっと海底でブヨブヨでグチャグチャになって浮上できなくなった自分が泣き喚いている。

きっと悲痛な顔で泡をブクブクとばしている。

 

いつになれば、この泡の源泉はあがってくるのだろうか。

そもそもあがってくる必要なんてあるのだろうか。

 

いまは、薄っぺらいメロドラマをつくって泣いたフリをするのが精一杯。

死んだ言葉でガラスの海をつくるのが精一杯。

 

でも、そのガラスの海にも「何か」がある。

ときどき光が差し込んでくる。

この光はなんだろう。

わからない。

 

でも、

きれいだ。

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