一途で多彩な日々

久しぶりに寝付けなくて、布団の中にこもっていた。

Netflixで『Light House』を観たり、YouTubeで好きなhip-hop(guca owl,唾奇,舐達磨)を聴いていた。

強いクリエイターは、みんな「自分」を持っている。

 

最近はずっと調子がよかった。スケジュールに沿って規則正しく生活し、創作にもアクティビティにも没頭できていた。「自分の人生を取り戻した」ような感覚だった。

自分は「打ち込めること」がないとうまく生きられない人間なんだと再確認した。

『Light House』の中で、オードリー若林さんと星野源さんが所ジョージさんの話をしていて、それが印象に残った。

所さんは、世の中がむちゃくちゃでも一人でものを作ったりして楽しそうに生きていて、その上で「来るものを拒まず、去る者は追わず」みたいなスタンスで生きている。ひとりですごく充実した時間を持っているのに「一番幸せなのは家族で夜ご飯を食べる時間」と言っている。若林さんと星野さんは、そういう所さんに惹かれているみたいだった。

ぼくも、所さんの感じはいいなぁと思った。というか、自分もそうじゃないとやっていけないんだろうなぁと思った。まずは自分を満たして、その上で他者と関わっていくスタイル。というか、まずは自分の深いところまで降りて、そこから他者に向かっていくスタイル。

自分は何があれば満たされるのか。それがわかってきた。

いろいろ端折って言えば、「瞬間の美」を追って創作をしたり運動をしたりすることでぼくは「充足」する。文章を書いたり、写真を撮ったり、スノボーをしたりしながら、「あの瞬間」を追い求めていくエキサイティングな日々が、すごくたのしい。

それができていれば、「余計な人間関係」を追い求めることもなくなる。

でも、10代の頃みたいに孤独ぶって「俺は独りで生きていく」みたいな感覚になっているわけでもない。

「自分は自分の人生を生きている」と思えている状態では、気の合う友人と「何でもない話」をしたりするだけでも、幸福を感じられる。

「この時間」を大切にしようと思える。「この時間」を大切にするために、「自分の人生」を生きようと思える。

この感覚はいつも不思議だ。

やっぱり、創造は個別の義務で、愛は全くもって恩寵なのだろうか。

 

創作するエネルギーが足りなくなってきて、流れを変えようと思い、去年の春のブログを読み返していた。とても気に入っていた日記だったのに、非公開にしていた。公開(1つ目,2つ目,3つ目)し直した。

この日記を読み返しながら、いまと「基本的な部分」が全然変わってないなぁと思った。この時からすでに「自分の物語」があって、それに沿って生きてる。

「自分の神話」を創造して、それに沿って「自分の人生」を生きていたいと常々思っているから、これは悪いことではないと思う。まだまだ粗削りだから、もっと洗練させたいと思っている。

ただ、ちょっと客観的にみると「いつも同じことを言っていて馬鹿みたいだなぁ」とも思える。

「馬鹿みたいだなぁ」とも思えるけれど、自分が目指しているものに向かって一途に行動するのが「馬鹿」だとされるのなら、馬鹿な方がいい。馬鹿な方が尊い。

馬鹿みたいに一途に「何か」を追い求める日々。一途に「何か」を求める日々の中にある彩り。その多彩さ。その美しさ。その愛おしさ。その有り難さ。

「一途で多彩な日々」を、どこまでも追求していきたい。

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