不器用な人

 

思いやりが深くて尊敬する人たちが、「他人のため」に生きているように見えるのに、「結局は自分のため」だと言っていることが多い。

吉福さんが「他人のためにセラピーをやってるなんて言っているやつは単なる偽善者だ」と言っていて、そこに惹かれた。

そこに惹かれたのは、吉福さんが他人のことを深く思っているように見えたからだった。

深く他人を思い遣っても、結局は「エゴ」から逃れられない。そこで感じるモヤモヤした感覚。葛藤。何かがつっかえているような感覚。

そのつっかえている「何か」と向き合っている人に惹かれてしまう。

「何か」と向き合いながら、それでも手を動かし、歩みを止めずにいる人たち。そういう人たちの、不器用な感じ。不器用でも、着実に進んでいく感じ。

そこには、人間という存在の不思議さがある。不思議な美しさがある。

つっかえているものはあるけれど、そのつっかえているものも含めて「自分」だけど、ジタバタしながら、美しく進んでいくのも「自分」なんだと思う。

いろんな「自分」がいて、何が「本当の自分」なのかはわからないけれど、ジタバタしている自分は素直に好きでいられる。

そういうジタバタする「自分」をもっと認めてあげてもいいんじゃないか。

たとえ「部分」であっても、それが「自分」であることに変わりはない。

そういう「部分」を少しずつ増やすこと。

 

つっかえている自分。そのつっかえている自分以外の「何か」になりたいと願う。そのとき、自分は自分以外の「何か」に成ろうとする。

自分以外の「何か」に成ろうとジタバタしながら、前に進む。そのとき、自分以外の「何か」が「自分」の「部分」に成る。

自分以外の「何か」の「部分」がどんどん「自分」になっていく。それはつまり、「誰か」が「自分」になるということ。「自分以外」でも「自分」でもない、「誰か」になるということ。

 

世界は面白い。

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