こんばんは。
いま、仕事のあいまにカフェでコーヒーを飲んでます。
きのうも仕事終わりに今日とは「別のカフェ」でひと作業させてもらったのですが、やっぱりカフェはいいですね。
心が安らぎます。
気分転換にカフェに行って思ったのですが、「空間を変えると気分が変わる」のって、改めて考えると不思議です。
「別の場所」に移動すると気持ちが変化する。
それは当たり前といえば当たり前なのですが、すこし深く考えてみると、面白い発見がありそうな気がします。
今日はその辺りの考えを、少しだけまとめてみようと思いました。
シュタイナーが『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』のなかで「畏敬」の感情を強調していて、それについて思いを巡らせていた。
ここ最近、これについて考えることが多かった。
そもそも「感情」は自分一人の内で閉じてない。
「感情」というものは、外にある様々なヒトやモノと”分有”しているのが実態で、しかし一般的な感覚としては「感情」というものは個人が一人で”所有”しているものだと思われている。
「もっと自分の感情を大事にしな」と言われたりする。
そこで素直に「自分の感情」と向き合おうとするのだけど、その「自分の感情」を自分一人で”所有”しているものだと思ってしまうと、行きづまる。
「自分の感情」というものは、言いかえれば、「自分が自分のまわりのヒトやモノと一緒につくりあげているようなもの」だから。
だから、たとえば「自分の感情」というものに捉われそうになったとき、「”自分だけ”の感情」が存在するとは思わないほうがいい。
自然豊かな場所にいくと心が開放的になる。
それは豊かな自然と「自分の感情」を分かち合っているからだ。
森で心地いい気分に浸っている時間には、”森”と”自分”の関係が「創造」されている。
自然豊かな場所に行ったときのことを思い出して心地いい気分を思い出しているとき、そこで起こっているのもまた「関係」を通しての”創造”だ。
そしてその「思い出」の中には、思い出そうとしている対象の記憶だけでなく、「他の思い出」も混じってくる。
「豊かな自然」が与えてくれる思い出に、「近くにいた人」との思い出が混ざったりすることもある。
シュタイナーのいう「畏敬」の感情を育てるのに手こずっているけれど、これもまた、「外」の力を借りる意識を強くもてば、もっと上手くいくんじゃないかと思った。