おはようございます。
もう6月ですね。
こちらはそろそろ紫陽花の季節です。
いま、岡山県の玉野市の玉という地域にある「The Corner」というカフェでアイスコーヒーを飲んでます。
とても心地いいカフェで、すっかり気に入ってしまいました。
このあと近所の「玉比咩神社」に行く予定です。
今日はなんだか「玉」ばっかりです。
今日も「ボール」のようにあっちこっち転がりながら生きています(止まらない!)。
いま、「紫陽花」を見にいく計画を立てるために色々調べているのですが、岡山にもいい感じの「あじさい名所」がたくさんありそうです。
もう、今から、ワクワクしてます。
先月は倉敷で「曙藤」を観ました。
「阿知の藤」と言って、この藤を観ながら人々が不死(健康長寿)と不二(和合)を願うそうです。
僕が先月「曙藤」を観たときには、蜂が藤の周りをブンブン舞っていました。
ブンブンうるさい蜂を内心ビクビクしながら眺めていて、「後藤は”フジ属”だ。だからオレはたぶん蜂に刺されても不死でいられる」みたいなことを考えたりしてました。
思考回路がおかしいですね。
そう、あいかわらずアホなのです。
でも、アホだからこそ想像力が面白いほど膨らんでいく部分があって、僕は自分のアホな部分がけっこう好きで、今日も今日とて自分なりに自分のアホな部分を楽しんでいます。
いわば、「セルフレクリエーション」です!
つまり、「後藤再創造」です!
そう、「”新しい後藤”を再び生み出す」のです!
50→0→50
です!!!
……
……
あぁ、僕はいつまでこんなことを言い続けるのでしょうか(ぜんぜん飽きない)。
まったくもってイカレポンチです(たのしいからイカレポンチでオッケー!)。
イカれた話はこの辺にして、このまえ知った「蜂と花のパートナーシップ」の話が面白かったので、ちょっと共有させてください。
蜂と花はお互いにお互いを必要としていて、”相互双方向的なコミュニケーション”によってお互い助け合っているという話です。
植物は太陽光のエネルギーを糖質に変え、その一部を蜜腺から分泌してミツバチに提供します。これはミツバチの栄養、さらには飛行や巣内の暖房用燃料、巣の材料となります。花粉もミツバチにとっては貴重な食料であり、これらを集めるための訪花活動の結果が、花にとっては受粉となるわけです。
ーーー
ミツバチをはじめとするハナバチ類は、いずれもその栄養源のすべてを花蜜と花粉に頼っています。花蜜はハチミツとして、花粉はハチパンとして巣に蓄えられます。ハチミツはそのほとんどが糖質でエネルギー源となり、その他のすべての栄養素は花粉から得ています。
『ミツバチと花のパートナーシップ』 一般社団法人日本養蜂協会
蜂は「花を刺し殺す」ために花に近づいているわけではなく、花から「蜜を吸う」ために花に近づいているようなのですが、「甘い蜜」を吸って利益を独り占めしているわけではなく、蜂が蜜を吸ってくれるおかげて花は「受粉」することが可能になるそうなのです。
「蜜」を媒介にしてお互いの命を繋いでいるのですね。
あなたもご存じの通り、僕は「花」が好きなのですが、なんだか「蜂」もいいなと思えてきました。
「太陽」に照らされながらすくすくと育つ「花」は、「蜂」の仕事によって、「次の開花」にも備えているようです。
太陽の光が、巡り巡って、いろんな生物たちと協力し合いながら、何度も何度も花を咲かせるのですね。
楽しくて、役に立つ。
楽しいし、役に立つ。
蜂は、なんだか素敵です。
「蜂」のように蜜を運んで働くのは、楽しそうです。
「花」のために「蜜」を運ぶ「働き蜂」のような生き方は、いまの僕にとって、とても好ましく感じます。
見習いたいです。
4月は桜、5月は藤、6月は紫陽花。
岡山で花を訪ね歩く日々。
”花の香り”に心を満たされ、背中を押されるような毎日です。
とても充実しています。
このまま、6月も充実した日々を送りたいです。
それでは、今日もあなたの日々が彩り豊かな楽しい日々になることを祈ります。
華やかな笑顔のあなたが、きょうも幸せでありますように。
紫陽花の香りに誘われる六月の岡山より。
ふわり羽根のよう たんぽぽの綿毛が揺れる
遠くまで種を運ぶ 風に僕もなりたいんだ
結ぶ指先を 小さな手が握り返す
幸せへと いつかきっと 送り届けるから
『Girl』 秦基博
宇野港のちかくの緑地の芝生にブルーシートを引いて寝っ転がっていた。
宇野常寛さんの『庭の話』を読んでいた。
碧い装丁を青い空に向けて仰向けで読んでいた。
アオだらけ。
「やっぱウノさんわっかとるわー」などとほざいていた。
ハンナ・アーレントの『人間の条件』も、重要な部分で出てきた。
まだあまりちゃんと読めてないけれど、パラパラめくっているだけでもうすでに面白い。
宇野さんは、自分の関心に近いものを他にはない角度で表現してくれる。
見田宗介=真木悠介の『自我の起源』を読んだとき、「これはヤバい」とおもった。
ハンナ・アーレントの『人間の条件』や『革命論』を読んだとき、「これはヤバい」とおもった。
「これはヤバい」と思って、それが確実に自分の中にある核心的な「何か」に届いていることはわかるのだけど、それを自分の中で咀嚼し、さらに自分なりの形に展開するまでにはとても時間がかかる。
宇野さんが、見田さんやアーレントの知を自分なりに引き受けて、さらにそれを展開させているのを横目に眺めていると、なんというか、まずそのこと自体にすこし感動してしまった。
血の通った”生きた知”に出会うと、感動する。
見田さんが『自我の起源』で”虫と花の共進化”の話をしていて、僕はこの話がとても好きなのだけど、宇野さんがそれを「庭」という比喩をつかって新たに展開させていて、興味をそそられた。
その「庭」の話をアーレントの『人間の条件』をアップデートさせた形で展開させていて、かなり興味をそそられる。
まだあまり咀嚼できていないのだけど、ピンと来たところをかいつまんでみると、面白いところがいくつかあった。
中でも、公的空間と私的空間のあいだに着目しているのが、流石だとおもった。
「家庭」という言葉が示すように、家の外縁には「庭」というスペースがある。
内とも外ともいえない、輪郭のぼやけた領域。
なんとなくだけど、こういうボンヤリした曖昧な領域に、「次」の可能性があるような気がしている。