冬花火

2022.12.05

 

 

 

自分の弱さを受け入れられるときは、いい意味で受け身になっている。

 

今日は久しぶりにしっかり寝れた。

店に着いていつものように配達の準備をしたあと、きのう買ったスーザン・ソンタグの『ラディカルな意志のスタイルズ』をカバンから取り出して、パラパラめくった。

 

配達をしてから新聞を積んだトラックが店に来るまでの、そのあいだの時間に何をするか。

今日は本を読んだ。

今日は本を読んだけど、この時間にする作業を決めているわけではない。

本を読むか、ヨガをするか、友達と話すか。

どれか一つに絞って、それをやり続けるスタイルはやめにした。

一つに絞ってそれをやり続けるよりも、いくつかの選択肢を持っておいて、時に応じて色んなことを少しずつやっていく。

そういうスタイルを試している。

 

「一つのことをずっと続けなくちゃいけない」という考えが、これまでの経験によって自分の中に深く根づいている。

その考えに縛られて、一つのことを続けられない自分を責めてしまったりする。

あまり意味がある叱責だとは思えない。

だから、その意味のない考えにしたがうよりも、新しく掘り起こした「色んなことを回しながらやる」という考えを育てながら実践してみたいと思った。

いまのところは、これが結構しっくりきている。

 

「色んなことを回しながら少しずつやる」のだけど、その色んなことを回しながら少しずつやる作業を”一途に”やりつづけようと思った。

「色んなことを回しながら少しずつやる」ことすら続けなくなると、それは本当に何もしなくなることになる。

それはちがう。

 

しっくりくるようになった新しい感覚。

色んなことを回しながら少しずつやる。

すこしややこしいけど、「色んなことを回しながら少しずつやる」という新しい感覚の周りに、「一つのことをずっと続ける」という古い感覚の「残り火」を近づけて暖めているような感覚もある。

 

古い感覚のなかにも、「使える感覚」は残っている。

心のなかに、古い感覚の中にあった「何か」が残っている。

その「何か」は、「使える感覚」として残っている。

それは”残り火”のようなものだ。

 

心の中で燃えている「何か」の残り火を、「新しい火」にうつしていく。

そういう感覚。

そういう感覚を使っていくと、一途に色んなことをやり続けられるような気がする。

しばらく、この「新しい感覚と古い感覚のリミックス」で生活してみようと思った。

 

配達のトラックが来て、新聞を作業台に載せた。

折込チラシを入れる準備を整えながら、対面の机で作業をしている友達と喋りはじめた。

「眠そうやな」

「眠いっす」

”お決まりの言葉”で会話に入りつつ、友達の機嫌をなんとなくうかがった。

今日はあんまり機嫌がよくないようで———というより朝はだいたいみんな寝ぼけていて———言葉の端っこにすこし棘があった。

ワザとではないことはわかる。

 

あまり眠れないまま朝を迎えたとき、アラームの音がうざったい。

疲労感を消せずに残しておくと、その疲労感がうざったさの着火剤になる。

疲労した朝の目覚ましのアラームは、火に注ぐ油だ。

 

ちょっとした残り火でも、油を注げば大きくなる。

眠たい朝の会話は、どうしても「油の注ぎ合い」のようになってしまう。

 

今日も”油の注ぎ合い”は不可避かと思ったけれど、様子がいつもとすこし違った。

火はそれなりに大きく燃えていたのだけど、なんとなく心地よい炎だった。

火遊びをするときのような楽しさがあった。

 

いつもやたらといじってくる友達。

今日はやたらと「おじさん」を連呼してくる(その友達はぼくの10歳年下)。

「いや、まだ28だし」と応答していた。

 

別にどうってことはないと思いつつ、なんとなく腹の底で残り火が燻りはじめるのを感じていた。

僕はもともと短気だし神経質なので、言葉の棘にはわりと敏感な方だと思う。

だから、「別にどうってことはない」という感覚が99%以上でも、1%未満の残り火を無視してしまうと、そこから記憶の古層にある「苛立ちの残り火」が発火して炎上してしまうことがある。

だから、腹の底に感じる小さな残り火をしっかり意識しながら、「おじさんイジリ」で遊ぶことにした。

ちょっとした火遊びだ。

 

しっかり火を見ていれば、下手な「延焼」はしない。

むしろ、友達が放ってくる花火のような言葉を眺めて、その花火の出どころをイメージすると「面白いなぁ」と思える。

さすがに「綺麗だなぁ」とは思わないけれど、「面白いなぁ」と思える。

 

「面白いなぁ」と思っていると、なぜか火が段々弱まっていく。

あいかわらず「おじさん」を連呼していたけれど、段々言葉に棘がなくなった。

自分の力で、友達の心を消火できたような気がした。

それがうれしかった。

 

言葉を「使い終わった花火」みたいに捨てる。

バケツの中に「もう発火しない言葉」をお互いに放り込んでいく。

バケツの水か燻んで、夜の匂いに混ざっていく。

帰り道、重たくなったバケツを手に持ちながら、「楽しかったね」なんて言っていたい。

 

花火を眺めるときのような受け身の姿勢。

そんな姿勢で会話をした冬の朝。

夏の夜みたいな冬の朝だった。

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