何人も他の者と等しくあるな。だが、みな最高のものに等しくあれ。
どうしたら、それができるか。みなめいめい自己の内部で完成させてあれ。
『四季』秋の部 ゲーテ
洞爺湖温泉のバスターミナルからバスに乗って洞爺駅に向かっていた。Audibleでアンデルセンの『雪の女王』をダウンロードしたが、集中力がなくなっていた。
オーディオブックを聴く気になれなかったので、YouTube Musicで『アナと雪の女王』の主題歌を聴いていた。『レット・イット・ゴー』。
「ありのままの〜 姿見せるのよ〜」という松たか子さんの歌声。よかった。
さっき行ったカフェで、本棚からアンデルセンの『雪の女王』を手に取った。最初の方だけパラパラと読んだ。そのとき、ハッとした。
主人公の男の子の「ものの見方」を曇らせる「悪魔の作った鏡の破片」。物語の設定として、そういうものがあるらしい。それが、自分の中にある何かに反応した。
なぜホッファーは思いやりが大事だと言ったのだろう。昨日考えていたことを、今日もしつこく考えていた。
思いやりをもって自己認識を深くするのと、単に自己認識を深くするのとで、何が違うのか。
すこしわかったのは、思いやりとはひとつの「距離」だということ。
状況に埋没すると、思いやりは発揮できない。状況に埋没せず、そこから距離をとって状況を俯瞰すると「何か」が見えてくる。その視座から送られる視線が、きっと思いやりというものだ。
自分の内面を覗くと、そこには善と悪、美と醜、白と黒がバラバラの断片になって散っていたり、それらが混ざり合ったりして蠢いているように感じる。
きっと人間は誰しもそういうものだ。まったくの完全にもまったくの不完全にもなれず、相反する二つの側面を抱えながら半端者として生きていくしかない。
それが人間の”ありのままの姿”だ。
ホッファーが思いやりを持つことが魂の唯一の抗毒素になると言ったのは、悪から距離をとってそれに同化しないためというのはもちろんのこと、善からも距離をとる必要があると感じていたからではないか。
きっと善は悪から離れて存在することはない。善と悪は同じ空間におさめられていて、それらはいつ結びつくのかわからないようなものなのだ。いつでも化学反応が起きる可能性を持っている。善は、何かきっかけがあれば簡単に悪に反転したりする(悪と潜在的に既に結びついているのだろうか?)。
だから、善からも距離をとっておかないといけないのだ。
それは、いつか悪として噴出する可能性を秘めているから。
善悪や正邪よりも思いやりが大切だとホッファーが言っていたのは、この構造そのものを飼い慣らす必要を訴えていたのだろう。
人間である限り内側にあるこの構造をなかったことにはできないけれど、そこから距離をとることはできる。
そこから距離をとれれば、この構造を使いこなすこともできるのではないか。
この構造を使いこなすために、まずは距離をとる必要があるとホッファーは言いたかったのではないか。
「冷静に状況を俯瞰する」という言葉には、なんだか冷たい印象を持ってしまう。
遠くでよくわからないことを計算しながら、何かを見限っているように見えて、冷たく感じる。
そういう側面もあるけど、きっとそれだけじゃないと今は思う。
距離を保って状況を俯瞰するのは、ちょうどいい温度を保つための工夫でもあるのだ。
正義感とか善意とか、そういうのはたいてい熱っぽい。
そういう熱っぽい部分と同化してしまうと、余計な火種を撒いたりする。
そこから火の渦がひろがって、余計な被害を出したりする。
冷静に状況を俯瞰するのは、そういう余計な火災を防止することでもあるのだろうか。
太陽が遠くから地球を照らしているのは、きっと思いやりだ。
熱っぽい自分が近づきすぎるより、離れたところから照らした方がちょうどいい温度になると理解しているから、きっと遠くで燃えているのだ。
太陽は、熱っぽくて、冷静なのだ。
最初からただ単に温かいんじゃなくて、熱っぽさと冷静さを併せ持っているのだ。
なんだか、太陽が大人に見えてきた。