出生

 

 

 

おはようございます。

というか、お久しぶりです。

お元気ですか?

僕は、ひとりで集中して真剣に考えたいことがあったり、新しい仕事の準備(単なる副業です)をしてたりして、あっと言う間に時間が過ぎる日々が続いています。

   

ところで、こちらはもうすっかり夏です。

まいにち海沿いの坂道を電動自転車で通勤しているのですが、そこから見える夏の海がとても綺麗です。

海沿いの坂道で風に揺られる木々や草花の音を聴きながら海を見ていると、心の中にある空間がジワジワと拡がっていくような感覚になります。

いつも不思議なのですが、海を見たあとにすこし目を瞑ってみたりすると、意識が広大になっていくのを感じます。

 

意識が広大になっていくのを感じながら、なぜか生まれてきた瞬間のことや生まれてまもない頃のことを想像していました。

それから、「この世に生まれてくる瞬間って、もしかしたらこんな感覚も持っていたんじゃないか?」みたいなことを考えたりしました。

ちょっとズレた考えである気もするのですが、こういうことを想像すると心が伸びやかになって気持ちよかったです。

自分も地球にやってきた掛け替えのない「ひとつの命」なんだと思い、微かに心が打ち震え、「今日もちゃんと生きよう」と思えます。

 

うーん、なんだか今日もちょっと変なことを言ってますね。

ともかく、この夏もけっこう元気に生きてます!

 

話になんのまとまりもないのですが、僕はともかく、あなたと語り合えればひとまずはそれだけで嬉しいのです。

感謝しています。

いつも、幸せな気分をありがとう。

 

それでは、今日は瀬戸内の夏の海に祈りを込めます。

今年の夏も、あなたにたくさんの幸運が訪れますように。 

 

 

 

 

ママ私を初めて抱く 気持ちはどうだった?

パパ私が生まれた日は 嬉しかった?

あれからキセキを重ねて 私なりの

愛も出会いも 育てて生きたい

 

生きてこそ』 Kiroro

 

 

 

倉敷を目指して岡山駅に向かう電車に乗っている途中、急遽行き先を変更して児島に向かうことにした。

吉福伸逸さんが生まれた町。

 

茶屋町で乗り換えて、児島行きのマリンライナーをガラガラのホームで待ちながら「バーストラウマ」について考えていた。

とてもマイナーな概念だけど、自分にとってはずっと意識の片隅にある重要なテーマ。

 

生老病死の心理学』を初めて読んだとき、おったまげた。

仏教に対してこんな捉え方ができるのかという驚き。

視点の鋭さもさることながら、そこには経験に裏打ちされたリアリティがあって、痺れた。

馬鹿みたいにのめり込んだ。

どうしようもなかった。

 

僕がこの本に出会ったのはたしか24歳ぐらいの頃で、その頃は仏教(特に初期仏教)にくびったけで、仏教思想の根底にある「四苦」についても考えていた。

生まれの苦。老いの苦。病の苦。死の苦。

とても虚無的。

 

とても虚無的にみえる仏教にベタに共感して宗教的感覚がつよい人間にありがちな「青年的煩悶」のようなものをチラつかせるわけでもなく、虚無を無理に投げ捨てて反動的な「強過ぎる思想」を嘯くわけでもなく、「ともかく大事なのは極端なことをしないこと」と言っているバランス感覚。

吉福さんのあのバランス感覚。

「青年的煩悶」や「強過ぎる思想」も内に含んでいるようにもみえて、それでいてそれらに捉われていないような感じ。

『生老病死の心理学』を読んだときも、あのバランス感覚が生きていて、唸らされた。

 

特に印象的だったのが「生」のところ。

仏教の思想を解説してくれる本は山の数ほどあるけれど、いつもなんだか「生」のところが弱い印象があった。

僕の仏教の読みはきっと偏っているので、勝手な見解でしかないけれど、「老」や「病」や「死」についての語りには鋭く切り込んでいるものが沢山あったけど、「生」についてはまだまだ語り尽くされていないような印象だった。

 

詳細をあまり覚えていないのだけど、『生老病死の心理学』のなかで、たしかオットー・ランクを引き合いにだして誕生心理学(バースサイコロジー)が紹介されていて、それがとても面白かった。

人間は誕生のプロセスでもうすでにトラウマ(心理的外傷)を抱えてしまう。胎児のときの状態や生まれてくるプロセスの中で傷を追ってしまう可能性があり、それが人間のパーソナリティの形成に大きく影響するという考え方を持つ心理学。

生まれてくるプロセスで抱えるトラウマを「バーストラウマ」と呼ぶ。

そういう視点があると知ったとき、「トラウマ」というものの深さというか”底のなさ”を感じた。

 

心理学に関わる人たち(愛好家も含めて)が、親子関係を引き合いにだしてパーソナリティの歪みを説明する場面がよくあって、「あんたの親が悪かった」だの「あんたの親に対する捉え方が悪かった」だの言ってることが多い。

もちろんそれはそれで一つの視点ではあるのだけど、もうちょっとその語りの「前提条件」を疑った方がいいんじゃないかと感じることがよくあって、バースサイコロジーを知ったとき、このバースサイコロジー視点をもっと大事にした方がいいんじゃないかと思った。

 

反対に、親子関係の語りに満足できない場合に一気に「前世」とか「カルマ」まで飛躍することも多くて、それもそれでまた有効な視点なのだけど、それだとちょっとどこか地上から”浮遊”していて語りがマジカルになり過ぎる。

 

「親子関係」の語りや「前世」の語りだけじゃどうも”しっくりこなさ”が残って、その”しっくりこなさ”大きく補ってくれるようなところがバースサイコロジーには眠っているんじゃないかと思った。

ただ、バースサイコロジーの視点に一方的に加担し過ぎると、人間のパーソナリティを「生まれ方によってすべてが決まる」という方向に閉じ込めてしまって、人間の可能性を狭く限定してしまうし、それは普通に考えて一面的過ぎる。

 

いま出した「三つの視点」にも共通して言えるのだけど、「こうしたから、こうなったんだ」と原因と結果を直結してしまうメンタリティを僕たちはどうしても持っている。

だから何か原因を探して、それさえ取り去れば結果は変わってくるだろうと思い込んでしまう。

冷静に考えるとあまりに一面的な見方だけど、僕たちは物事がそう簡単に線形的に解決できるものではないとは、なかなか思えない。

無意識にそういう考え方にハマり込んでしまう。

そういうところがある。

 

吉福さんのあの「極限のバランス感覚」とでも言っていいような独特のセンスは、僕たちの持つ「原因と結果を直結させてしまうような偏った考え方」に自覚的で、誰よりもそこに注意深く意識を持っていたからなんじゃないかと思った。

人間の認識の歪みや偏見に自覚的だったからこそ、人よりフラットに物事を見ることができていたんじゃないかと、 改めて思った。

 

 

久しぶりにバーストラウマについて考えていると「誕生」についてもっと考えたくなって、Amazonで『イブの誕生、アダムの出産』という「お産」についての対談集をポチって読んだ。

そこに吉福さんも登場する。

やっぱりとても面白かった。

ちょっと長くなるけど、記憶に残して起きたいので、引用。

 

 

 

吉福 

 誕生はそれだけで大変なことだから、誕生する環境を整えるだけでバーストラウマが消せるかというと、そうではないと思う。いくら環境を整えても、生まれてくるという、そのことだけでバーストラウマを体験する子もいるでしょう。そう考えると、人間というのは、生まれるとき艱難辛苦を経るということが自然のプロセスなのではないか。それによって、得る何かがあるということでしょう。

 誕生のプロセスというのは、生まれてから人生を経ていく上で、もっていなくてはいけない人間の人格的、精神的なある傾向を生むためにあるんだと思います。苦難に直面したときに、逃げてしまうのではなくて、なんとかそれをやり遂げようとする精神力を養うもの。同時に、この方向にいくと、大変なことが起こって自分が傷つくから、この方向には行かないようにしようとする防衛機構を発達させるためのひとつの原点でもあるという気がします。生存、成長、人生をまっとうさせるという基本的なプログラミングのベースが、誕生の苦難の中に含まれている。そうでなければ、人間はもっと早い時期に小さく生まれてくるように、設計されていたのではないかと思いますね。

 

---子どもにバーストラウマを負わせなくないから、水中出産を選択する人たちもいるんですが、その裏側には胎教や早期教育に通じる教育ママ・パパ思想がチラついているのが気になるんですが。

 

吉福

 だから、バーストラウマをなくすことを目的に誕生の環境を整えるということではなく、大変な思いをして生まれる赤ん坊へ、まわりの人間のしてあげられることは最善の環境をつくること、という発想でいいと思います。

 

ーーー水中出産は、そうした誕生の環境を考える上で、ひとつの選択肢であると。

 

吉福

 水中出産は、羊水の中から水の中へ生まれ出るわけですから、移行を楽にしてくれるという意味はあると思います。子宮と同じ環境をつくるというのは、おもしろい発想でしょう。でも、だから水中出産がいいと言っているのではありません。

 むしろ今は、全員が病院で出産する、そのことのほうが異常ですよ。現在の病院出産というのは、西洋文化とともに世界中に広がっていったものです。世界各地には、出産や誕生に関して、民族性や地域性に合ったそれなりの意味をもった文化がある。それをすべて、西洋医学が病院出産という形で塗り替えてしまったわけです。西洋というひとつの地方文化にすぎないのに。

 西洋文化には様々な特徴があります。ひとつは、何か問題があるとすると、その原因の源を探ろう、特定しようとすることです。どこに原因があるか探って、その原因を取り去るか、別なものに変えることによって、問題の解決をはかろうとする。その原因がいけない、そこに悪が存在するとみるわけです。

 そのように因果関係をひとつに集約させることは、むしろたやすいのですが、実際、人間のからだや心というものは、そんなに単純なものではない。からだと心は全体の関係やバランスによって成り立っている。皮肉なのはそのバランスが崩れたときに、はじめてバランスがとれている状態というものがわかる点です。ものごとに、いい悪いという価値をラベリングをせずに、あるがままの状態でみる目が必要じゃないでしょうか。

 

イブの誕生、アダムの出産』 きくちさかえ

 

 

 

なんで「cyber space」をテーマにしたブログでこんなことをクドクドと書いているんだろうと自分でもちょっと思ったけれど、僕にとっての「cyber space」は「IT」と「社会」と「デザイン」を考えるための装置のようなもので、中でも「社会」について考えるとき、ハンナ・アーレントの政治哲学にとても深い示唆をもらった。

そのアーレントの哲学は「政治哲学」ではあるのだけど、よくあるイデオロギーを擦るだけの政治理論などとはちがっている。

「政治」という言葉の使い方がそもそも前提から違う。

 

そういうことはさておき、なんというか、アーレントの思想には「人間関係の思想」とでも言っていいようなところがある。

厳密さを崩してしまうけど、「この世界で共に生きていく人間のための思想」とでも言うようなところがある。

 

そして、なかでも特に重要なキーワードがあって、それが「出生」というものだ。

アーレントのこの「出生」というキーワードを起点に色々と考えていると、吉福さんの紹介していたバースサイコロジーのことが頭に浮かんで、すこし考えを整理してみたくなった。

まだまだ全然掴めてない部分が多いけれど、ここに「何か」がありそうな気がしている。

 

吉福さんもアーレントも、世界の厳しさを深く認識しつつ、「何か」を肯定的に捉えている。

きっとその「何か」が、根源的な「意味」を支えている。

 

 

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