励まし

2022.12.31

 

 

 

12月31日。

ことし最後の日も一人でカフェにいた。

カフェの中には、「正月」という言葉と縁がうすそうな、「祝い事」と距離が隔てられている、どこかさびしそうな人たちがいた。

みんなひとりだった。

それぞれ、席に座って「何か」をしていた。

なんだか励まされた。

 

学大のドトール珈琲農園でダージリン紅茶を飲みながら、松岡正剛さんの『フラジャイル』を読んでいた。

344頁からの「遊侠の季節」を熟読。

「遊び」について考えた。

 

いろんな人に愛想を尽かされながら、生活している。

「いつまでフラフラしてるんだ」

というニュアンスの言葉を投げかけられることがたまある。

ぼくは俗にいう「遊び人」という言葉とは程遠いけど、遊んでばかりいる。

ふざけているわけではないし、結構マジメにやっているつもりだけれど、自分自身でも冷静になれば「いつまでフラフラしてるんだ」と言われても仕方がないのかなぁと思ったりする(たぶんホントのことだし)。

 

逆のパターンもある。

ただ遊んでいるだけなのに、そうは見られない。

「ストイック」で、「頭がおかしくなった」と言われもする。

それもまぁ、仕方がないのかもしれない(ジッサイ、頭おかしいし)。

 

「仕方がない」というのは、そういうふうに”見られる”ことが仕方がないという意味で、実際の自分の状況とは関係がない。

自分がやっていることの価値を自分がわかっていれば、他人からその価値を理解されなくても”仕方がない”と割り切れる。

いや、それはちょっとちがうな。

 

自分がやっていることの価値をわかってくれる人が一人でも存在するとわかっていれば、自分でもその価値を信じることができて、大抵の人に理解されなくても”仕方がない”と割り切れる。

つまり、「自分がやっていることの価値は、自分(だけ)がわかっていればいい」ということではない。

そう思えるほどの頑強な精神は持ってない。

やっぱり、誰かに”わかってほしい”という思いはある。

いや、わかってほしいという言葉はちょっと違う。

自分がやっていることの複雑さを簡単に「わかった」ことにされると、それもちがうと感じる。

 

たぶん、理解を求めているわけではない。

ただ、励ましがほしいだけだ。

誰かに励まされて、誰かを励ましながら生きていたい。

 

人と人は理解し合いながら生きているのではないし、そうする必要もない。

理解なんかできなくても、それぞれが「自分の人生」を生きていけるように、お互いに励まし合うことが必要なんだと思う。

 

今年も、本に励まされた。

本の先にいる、たくさんの人たちに励まされた。

ぼくも、これからも誰かを励まして、「励まし合い」のなかで「自分の人生」を全うできればいいなぁと思った。

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