キッチンで料理をしながらpenthouseの『単焦点』を聴いていた。
牛肉を焼きながら味噌汁を温めて、その間をみて納豆をかき混ぜる。
同時並行でいくつもの作業を走らせる。
気持ちいい。
頭の中で「この後はゆで卵やな」とイメージしながら、冷蔵庫からキムチを取り出した。
いろんなことを並行していると、バラバラだったものがつながって一つの世界ができたりする。
でもそのつながった世界というのは、かなり奇妙で微妙な世界だったりする。
つねに複数の物事を考えている。
だから、そのうち頭の中にあるそれぞれの思考にもつながりが出てくる。
でもその出来上がったものは、きっと自分にしかわからないだろうなぁと思えるものばかりで、それがなんだか切ない。
その切なさに流されて、ときどき荒唐無稽なものをそのまま口にしてしまう。
そうするとまぁ、キチガイ扱いされる。
キチガイ扱いは辛い。
ますます切なくなる。
やっぱり、そのまま出すのはよろしくない。
考えも、できればしっかり料理して出したい。
煮たり焼いたりしながら、相手の食べやすい「かたち」に変えれば、伝わることもある。
さっき買い物に行く途中で撮影現場に出くわした。
僕の家の隣はスタジオなのだ。
いつも隣で何かしらの「撮影」が行われている。
黒のワンピースを着た綺麗な女の人が、カッコよくポーズを決めていた。
ゴツめのカメラマンに写真を撮られていた。
雑誌か何かの撮影だろう。
遠目に眺めながら、なんかいいなぁと思った。
遠くから眺める彼女は綺麗な「かたち」だった。
遠くからだけじゃなく、きっと近くで見ても綺麗なんだろう。
だけど、たぶん実際に近づいてみて彼女を見ても、「綺麗だなぁ」という感想以上のものは出てこないだろう。
なんとなくだけど、そう思った。
オシャレな服とか、オシャレな家とか、単に目に見えるキラキラしたものじゃなくて、その奥にある目に見えない部分のキラキラしたものを感じたい。
「かたち」になる前のものを感じたい。
「かたちになる前のもの」が好きだったら、自然と「かたち」も好きになる。
ちゃんと料理されていれば、自然と「かたち」も好きになる。
見えないものを見えるようにすること。
それが創造力なんだとしたら、もっと「見えない部分」に敏感でいたいなぁと思った。