【命題1−6】★友だちとは、互いに人間として尊重しあう関係にある人のことである
『生きる技法』 安冨歩
と私は考えます。自分より地位が高かったり、年齢が高かったりする人であっても、対等に付き合ってくれるなら、それは友だちです。ここに言う対等というのは、タメ口を利くことではありません。目上の人にそういうことをするのは、失礼なだけです。そうではなくて、お互いに人間として尊重し合うという意味です。
お互いに人間として尊重しあう、というのは、相手の考えていることや感じていることを、正しく認識するように双方が心がける、ということです。自分で相手について勝手な像を捏造して、それを押し付けるなら、それは相手を侮辱していることになります。
高校生のころに『嫌われる勇気』でアドラーの考え方に触れたとき、「人間は平等ではないけれど対等」という言葉が好きになった。
キレイゴトを受け付けない時期だったのか、「平等ではない」という部分が好きだった。
それと同時に、ただの「格差バンザイ」「差別バンザイ」とは違ってるのがイイと思った。
そういう反動的なものも、ショーモナイと思っている時期だった。
「対等」という言葉の意味はきっとかなり深いのだろう。
そう思った。
そしてその意味をちゃんと知りたかった。
頭だけの理解ではなく、ちゃんと知りたかった。
たしか、『嫌われる勇気』のなかで「アドラーの思想を理解するには初めてアドラーの思想に触れたときの年齢の半分の時間がかかる」と書かれていた。
初めて読んだのが18歳だから、9年後の27歳には理解できている可能性があった。
だけど、「対等」という言葉の意味がいまだによくわらない。
でも、なんとなく掴めたものはあった。
掴めたものがあったというより、ときどき「これが対等という言葉が意味するものじゃないのか」と思えるようなものを感じる瞬間がある。
「対等性」というものは、概念のような固定的なものではなくて、例えば人と話しているときとか、例えば本を読んでいるときとか、そういう「時間の流れ」なかでその時々の”瞬間”に「感じる」ものなんじゃないか。
それを感じはじめて、「対等」は流れとしてその瞬間に「感じる」ものなんだと思った。
「感じ続ける」べきものなんだと思った。
それを掴んだら、その後も自動的に自分のものとして「体得」できるようなものではなく、その瞬間その瞬間に掴み続けなきゃいけないようなものなんだと思う。
これを感じるためには、感じ続けるためには、ある種の感覚を開き続けないといけない。
安冨さんが『生きる技法』のなかで書いていた、「相手の感じていることや考えていることを正しく認識するように心がける」という言葉にも、「ある種の感覚を開き続けること」とリンクするものがあると思う。
その「ある種の感覚を開き続ける」ためには、「時間の感覚」がキーになってくるんじゃないかと思った。
時間は過去から未来に流れていく。
そういう感覚を持っているのが一般的な現代人の在り方だ。
だけど、その時間感覚に埋没すると、「対等」を掴むための感覚が死ぬ。
そういう直線的な時間感覚は貧しい。
時間は未来から現在にも流れているし、現在のなかに常に既に過去も未来も存在する。
なるべくそういう感覚に「自分」を拓いておきたい。
「自分で相手について勝手な像を捏造して、それを押し付け」たりするのは、目の前の相手を、過去から現在に向かっていく一つの固定的な流れで捉えているからじゃないか。
あるいは、ただ目の前で「固まっている存在」としてしかみていないからじゃないか。
人間という存在は、そんな固定的な存在なんかじゃなく、色んな流れが重なった多様な面を持つ存在だ。
「対等性」を理解するには、そういう人の持っている”多様な流れ”に思いを巡らせる必要があるんじゃないか。
その人の過去に出会った人や物事、その過去との関係性で出来上がったその人の在り方。
その人の描く未来、その未来に向かってその人が作ろうとしているその人の在り方。
そういう過去と未来の多様な関係の流れの結節点にある模様なような存在としてのその人自身をみること。
その模様、その多様な現れをみること。
それはつまり、その人の中にある「多様性」をみつめること。
対等性を感じ続けるためには、多様性をみつめることが大事なんじゃないか。
なんとなくだけど、そう思った。