(1) 服務

 

 

 

お久しぶりです。お元気ですか?

僕はいま、和歌山県の高野山にいます。

1ヶ月くらい前から、お寺で働いています。

宿坊というお寺の宿泊施設がありまして、そこで働いています(お坊さんになったわけじゃありません!)。

 

高野山は「山上宗教都市」と呼ばれるめずらしい街ですが、山自体が持つパワーが素晴らしい場所で、特に夕方の大門からみえる山嶺と夕日は最高です!

山の向こう側に沈んでいく夕日を眺めながら「明日」に想いを馳せる時間は、他の何にも替えがたいです。

 

さて、新しいトピックでブログを書くことにしたのですが、ここでのテーマは「”有用性”から”創造性”へ」です。

この前、『エリック・ホッファーの人間とは何か』を読んでいて、以前からモヤモヤっとしていた何かの輪郭がみえました。直観的に、「何か」をつかみました。

これから迫り来る社会には、「創造力」が求められると思っていまして、ぼくはそのために必要な準備をしています。

 

もはや社会は朽ちていく一方で、環境は破壊され、人類の存続さえも怪しい。誰も彼もがそんな絶望的な状況に気付いている(と、思い込んでいる)ような時代ですね。

しかし、案外「打開策」はある。むしろ、絶望を”反転”させるようなチャンスがある。

この「チャンス」を生かすも殺すも自分次第。簡単ではありませんが、然るべき準備をすれば、道は開けると僕は思っています。

 

ただ、「これから」のための準備とはいえ、先のことばかりに意識を先行させても行き詰まるのは目に見えています。

まずは過去の延長線上にある現在を冷静にみつめて、そこから「未来」にうまく移行するイメージをつくることが必要だと思いました。

ですので、まずは冷静に過去の「棚卸し」をしようと思います。

手始めに、僕が一番最初に経験した消防士の仕事を振り返り、そこから未来につながりそうなものをピックアップし、”レポート”していきます。

 

 

僕の勝手な想いですが、貴方のような人にこそこれからの時代を生き抜いて欲しいと常々願っています(というか、貴方のような人でないと生き残れないと思います)。

だから、貴方にとっても有益な「何か」があるかもしれないと期待し、「メッセージ」を送ってアイデアを共有したいと考えました。

もちろん、この「メッセージ」を使うも捨てるも貴方次第。

 

それでは、引き続きどうぞご自由に本ブログをお楽しみくださいませ!

 

 

 

雨上がりの庭で くちなしの香りの

やさしさに包まれたなら きっと

目に映る全てのことは メッセージ

 

やさしさに包まれたなら』 松任谷由実

  

 

 

  

二十歳になる年だった。

入職した初日だったと思うのだが、組織のトップである「消防局長」の前で「服務宣誓書」なるものを読まされた。

”読まされた”というのも、当時の私はその「服務宣誓書」というものがどういうものなのか分かっていなかったのだ。

その「服務宣誓書」に従って”公のために奉仕する”ことを誓う。そういうおおまかな理屈は理解できたが、その「公」というものやそこに「奉仕」するということの意味が全く理解できなかった(今でもよくわかっていない)。

二十歳前後の、お世辞にも「聡明」とは言いがたい私の同期たちもおそらく誰一人として理解していなかっただろう。

 

誰一人として理解できないにも関わらず「誓い」を引き受けるということが今となっても奇妙なことに思える。

何も理解していないまま「奉仕」のための職業生活が始まったのだが、私は結局最後までその意味を理解することがないまま消防の仕事を辞めた。

 

今でも覚えているのだが、「現場に出たら1年目も10年目も関係ない」、「市民からすれば1年目も10年目も関係ない」と当時の上司や先輩に言われた。

そう言われたことを、”奇妙な感覚として”今でも覚えている。

言わんとすることは何となくわかるのだが、どう考えても「1年目」と「10年目」の技術や知識のレベルは違う。

 

こういう「奇妙なフレーズ」を発する人が複数人いて、ちゃんと言葉の中身を理解している人とそうでない人に分かれていた(ほとんど後者だったように思う)。

真にその言葉の意味を理解している人が言いたかったのは、「技術や知識はともかく、”心意気”をプロのレベルに保っておけ」という意味だったように思う。

それを取り違えて、本気で”今すぐ”に技術と知識を10年目に引き上げろと言う人がいた(彼は本当に愚かだった)。

 

「今すぐ」を要求する人物は、概して”情熱的”だった。きっとわけもわからないまま「誓い」に同意し、そこから抜け出せなかったのだろう。

ただ、自分が”訳のわからないもの”に同意しているということには薄々気づいていたようだった。

気づいてはいるけれど、それ以外の「拠り所」を見つけられず、とにかく情熱を注ぎ込める「宛先」がそこにあれば何だっていいと思っていたのだろう。

そして、程度の差はあれ「理解」が追いつかずに同じように”訳のわからないもの”に同意する他なかった人たちが集団的な「思い込み」を日々強化していく。

こうして消防(に限らず公安系や体育会系全般)には、訳のわからない「フレーズ」や「スローガン」や「メッセージ」が溢れるようになる。

 

こうした訳のわからない「メッセージ」に巻き込まれないようにするには、それを吟味する「時間」が必要だ。

人間が成熟するために「暇」が必要なのと同じように。

彼らの不幸はその「時間」を持てなかったことにあると思いたい(正直いくらでもあったと思うが)。

 

労働者の不幸は自ら思考する「時間」を持てないところにある。

あなたがわけのわからない「メッセージ」に疑問を持っているのなら、それは自ら思考する「時間」を持てているということなのだろう。

 

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