2022.11.06
ハッピータウンを出て、児島駅に戻ることにした。
児島駅に向かっている途中、駅のまえの開けた土地に公園があって、そこのベンチで「ひと休み」することにした。
ついさっき買った、『ぼくの死体をよろしくたのむ』をバッグから取り出した。
時刻は15時ごろ。5歳ぐらいのちいさな男の子が、自転車に乗る練習をしていた。
お父さんがそばで何かを言いながら励ましていた。
遠くの方からも、小さな子どもと大人の声が聞こえていた。
陽にあたるベンチは温かくて、すこし冷たい海風が吹いていた。
「死に近づきたい」と、時々思う。
「死に近づく」ということは、掴みどころがない。
ただ、なんというか、「死に近づく」という言葉で表わせるような、そういうことに惹かれる。
それは「死にたい」とか、そういうことじゃない。
むしろ「死にたい」より「生きたい」の方が、近い。
『ぼくの死体をよろしくたのむ』を読んだりしながら、ボーッとしりしていると、「近づく」という言葉がやけにしっくりきた。
この言葉をしばらく大事にとっておこうと思った。
児島駅のセブンイレブンで「吉備団子」を買って、バス停に向かった。
下津井循環線で、下電ホテルに行く。
ぼくの実家の目の前には川がある。
小さい頃、父から「航己はあの川から流れてきたんぞ」と言われた。
ときどき意味不明な冗談を言う父親だった。
幼稚園のころに「お前の本当のママは後藤真希なんぞ」と言われた。
その話を信じ込んだ素直なぼくは、幼稚園で先生にむかって
「オレのホントのママは”モーニング娘。”の後藤真希なんぞ!!!」と自慢した。
先生は爆笑。
吉備団子を食べながら、「桃太郎みたいに川から流れてこの世にやってきたんだとしたら、、、」みたいなことを妄想していた。
大人になっても、なんでも信じ込む癖が「死体」みたいに残っている。
バカげた妄想がやまない。
バスに乗り込んで、児島の町をボーッと眺め始めた。
運転手の男性は、懐かしい感じのする親切なおっちゃんで、乗客のぼくたちに語りかけるようにアナウンスをしてくれた。
東京の棒読みアナウンスに慣れていたから、なんだか得した気分になった。
さっき吉備団子を買ったセブンイレブンの店員のお姉さんも、「テンプレ作法」じゃなくて、「こっちをちゃんとみてるなぁ」と感じる人だった。
この二人に会って、児島の印象の彩度があがった。
ホテルについて、部屋で荷物を下ろした。
荷物を下ろしてすぐに、近くの鷲羽山の展望台に行くことにした。
1キロ弱の山道を、カメラ片手に歩いた。
夕日の時間が近づいていた。
山道や、山から見える海や、その向こう側が、茜色に染まりはじめた。
太陽が沈んでいく「あのとき」に向かって歩いていく時間は、やっぱりなんだか懐かしかった。
懐かしい気持ちを抱きながら、旅の記憶を反芻していた。
そして、いつかきっと旅の途中で「彼」に出会えると思った。
この先どこにいても、なにをすることになっても、また「彼」に会いに行こうと思った。
何度でも、「彼」に会いに行こうと思った。
瀬戸内海のそばの山道を登りながら、誓いを建てた。
山を登る途中におとずれた茜色の時間に、そう誓った。
海風が木々を揺らし、その影が揺れていた。
揺らぐ影を茜が包み、山は夜に備えていた。