つかない暖房

 

 

 

こんばんは。

いま、カフェの窓際の席でレモネードを飲んでます。

今日はこれで3軒目のカフェです(すばらしい休日!)。

 

自分で「カフェ好き」だと自覚してるつもりだったのですが、最近複数の人に「カフェ好き」を指摘さたときに、なぜか「驚き」に近い感情をおぼえました。

僕は自分が思っているよりカフェが好きで、自分にとって当たり前に好きなものは、気づくと好きという感覚さえ忘れさせるようなところがあるのかも、と思いました。

 

 

 

 

 

 

「人間がいちばん辛いのは当たり前のもの失ったときで、人間がいちばん幸せを感じるのは当たり前と思っていたものを失ってそれが戻ってきたとき」という話を聴いたことがあるけど、この話を思い出すと、なぜか「詩」という言葉も一緒に思い浮かぶ。

これはきっと「当たり前」という言葉と「詩」という言葉が、僕の脳内では”近所の人”だからだ。

 

 

今年最初の挨拶は、マンションのエレベーターで同じマンションに住んでる女性との「こんばんは」だった。

さっき一人でエレベーターに乗ったとき、不意に数日前にこのエレベーターの中で近所の人と挨拶をしたときのことを思い出した。

 

数日前にエレベーターで一緒になった近所の女性の「こんばんは」は、ホッとする声だった。

ら、よかったのだけど、まぁ、ふつうに心地よかった。

ふつうに心地よかったことを思い出して、「当たり前」についてすこし考え込んでしまった。

 

 

部屋に戻ってしばらくボーッとしようと思った。

暖房のスイッチを押した。

しかしなかなか起動しなかった。

 

暖房がつかなくてちょっと焦って、しばらく間があってようやく起動した。

暖房が起動するまでの20秒ぐらいのあいだに「当たり前」の世界がすこし揺らいで、自分ひとりで暮らしている部屋で安心している時間も、わりと脆弱な基盤で成り立っているんだなと思った。

 

 

 

 

 

 

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