月に誓って

 

 

 

飯乞うと

里にも出でず

このごろは

時雨の雨の

間なくし降れば

 

良寛

 

 

 

朝、仕事の迎えのバスが倶知安駅に到着するのは5時15分頃です。

5時過ぎに家を出て、雪道を歩きながらぼくはいつも月を眺めています。

 

いつから月を意識して生活するようになったのか、しっかりした記憶はないです。

ただ、伊豆高原にいたころ、大室山の観月祭に行ったとき、月の魅力をしかと掴んだように思います。

 

「伊豆高原でいちばん楽しかったのはテッチャンとマヤと西伊豆にドライブに行った日だ」と、テッチャンとマヤにはいつも言っているのですが、大室山の観月祭に行った日も、この日に匹敵するぐらい豊かな経験をしました。

楽しかった思い出の「いちばん」を決めようとするところに、ぼくの野暮ったさが出ている気がしますが、ついつい勢いで「いちばん」を口にしてしまいます。きっと何かのコンプレックスなのでしょう。

 

誰かと一緒に過ごす豊かさを知れたのは、独りの時間に「豊かさ」について徹底的に考え抜いたことが大きく関係している思っています。

この「豊かさ」は「人間の尊厳」に深く関わっている。今、そう確信しています。

テッチャンとマヤをはじめ、みんなと過ごした時間はぼくにとって、他の何にも代え難いものになったと思っています。

そういう体験ができたのは、ぼくがみんなに出会う前までに、孤独に自分と向き合う時間を持っていたからです。

孤独の価値を知ることができたから、誰かと過ごす時間の価値を知ることができたのです。

反対に、誰かと過ごす時間の価値を知ることができたから、なお一層、孤独の価値がわかるようになりました。

独りで過ごす時間は寂しくもありますが、そこには何にも代え難い「豊かさ」があり、ぼくはこれからも孤独を愛して生きていこうと思っています。

 

ぼくは伊豆高原にいるころから「寂しい」とか「つながり」とか、人目を憚らずに幼稚な言葉を度々口にするようになりましたが、実際のところは孤独が好きだし、人と群れるのは苦手です。

長年の孤独な生活によって自分の中で「何か」が凝り固まってきて、それをほぐそうとして、伊豆高原では意識的に人付き合いに勤しみました。

自分自身の「弱さ」や「愚かさ」を表に出すとどうなるのかを知りたかったということもあり、意識的に「自分」を晒して生活しました。

ただ、「自分」を晒そうと意識してみんなと過ごしても、まだまだ上手に開かない心の扉もあるのだと気づかされました。

時間をかけて凝り固まった扉は、そう易々と開くものではないみたいです。

 

大室山の観月祭に行った日は、雨が降っていました。

予定されていた太極拳やヨガの体験イベントや地元のバンドのライブは中止になり、人の数もそんなに多くなかったように思います。

雨が降りしきる中、ロープウェイ乗り場を降りてすぐのところにあるベンチに座って、みたらし団子片手にパソコンを開いていました。

Tomoya Nakaの『Moonlight arpeggio』を聴いていました。

不意に、涙が出てきました。止まらなくなりました。この時はきっと、これまで溜め込んでいた想いを洗い流していたんだと思います。

上手に心の扉を開けなくて、それがもどかしくて、みんなの前でも「自分自身」でいたいのに、なぜかいつも剽軽に振る舞って「上っ面の自分」で過ごすことが多くなってしまいました。

この時周りにいたみんなは賢い人が多かったから、ぼくの上っ面の剽軽さになんてとっくに気づいていたと思います。それに気づいた上で、それを面白がってくれる優しい人たちばかりでした。

 

もうこういうのはやめよう。と、雨の降る大室山で月に誓ったのを覚えています。

今もまだ、上手に心の扉を開けない日々は続きますが、すこしずつサビが落ちていっていることも確かです。

すこしずつ扉の淵にたまったサビが落ち、扉が開くようになり、光が洩れてきている。

それを、確かに感じています。

いつの日か、闇夜を照らす満月のような明朗な心持ちで過ごせる日がくることを、ぼくは自分自身に願っています。

そのときがくれば、あなたが優しく微笑んでくれるのではないかと、淡い期待を寄せています。

 

5時15分。

今、倶知安駅の前でこの文章を推敲しながら、バスを待っています。

今日、雪路を照らしていた月はきれいな三日月でした。

弱々しい光に照らされた雪路は、今日も肌寒いです。

寒い日が続き体調を崩しやすい季節ですが、どうかお体を大事になさってください。

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