明けましておめでとうございます。
2025年最初の1日も職場で初っ端からトラブル続き(パワハラ案件!)で、出だしから心拍数が上がり気味でした。
面倒なトラブルに巻き込まれると嫌な気分になるのは当然ですが、「非日常的な感覚」が呼び覚まされるようなところもあって、どこか気分が高揚したりします。
トラブルの中で憶えた感覚が、その後の人生で”壁”を乗り越えるときの手がかりになることもしばしばで、そういうことを知ってからというもの、トラブルがやってくるたびにビビりつつも、トラブルのなかにある「未来の種」をみつける愉しさのようなものを憶え始めました。
「いつでもなんでもかかってこい」みたいに開き直ってるわけじゃないのですが、「もうすこし肚の据わった人間になりたい」と思って試行錯誤した結果、ネジを一本か二本ぐらいは外すことに成功したような気がします。
いや、ネジは元々すこし外れていたのですが、ネジを外した方が長期的にみて物事がうまくいくこともあるということを学習してから、状況をみてネジを外したり締めたりすることの価値を理解し始めたんだと思います。
うーん、正月早々何を言ってるんでしょうね。
いま気づいたのですが、こんなことばかり言ってるからたくさんトラブルを引き寄せるのかもしれませんね。
引き寄せの法則、恐るべしです。
それでは、相変わらずへんてこな幕開けですが、本年も宜しくお願い申し上げます。
「引き寄せ」もそうだけど、「カルマ」という言葉の便利さに溺れて混乱している人はたくさんいる気がする。
今日も昨日に引き続き『ILP』を読んだ。
シュタイナーは特にそうだけど、ウィルバーも「カルマ」というものに対して示唆的なのか、「カルマ」という言葉で表している何かへの理解を促してくれる。
この二人が取り扱っている対象はとても大きくて深くて、そして統合的で包摂的だから、「そんな大きなこと言われるとちょっと、、、」と、たじろいでしまう部分がある。
ただ、悪戦苦闘しながらも「大いなるもの」へ向かっていくことをやめずにいると、「たじろいでいる場合じゃないな」というか、「結局これ以外やることないわ」というか、いい意味での”諦め”の感覚も芽生えてくる。
”諦める”という言葉はもともと仏教用語で、それが意味するところは「明らかに観る」というものだけど、悪戦苦闘しながらでも目を逸らさずにいれば、「諦めずに生きる」ことの大切さも感じられる。
僕はたぶん、「諦めずに生きる」ために”諦める”ことを学んでいるのだろう。
今日の夕食のとき、食堂のおばちゃんがお昼の残りの茶碗蒸しをくれた。
お昼の残りの茶碗蒸しはすこし冷えていて、おばちゃんはそれを気にしていた。
「ちょっと冷えてて申し訳ない」とおばちゃんは言っていた。
「そんなの気にしなくていいのに」とおもった。
茶碗蒸しが冷えてるか冷えてないかなんか、おばちゃんの心遣いに比べたら大したことじゃない。
それをうまく伝えたかったけど、言葉がみつからなかった。
言葉をうまくみつけられなかったけど、どうにか何かを伝えたくて、「冷えてる茶碗蒸しもいいですね」と言った。
おばちゃんは、すこし笑っていた。
うまく伝えられなかったけど、「言ってよかった」と思った。
2025年は、温かいはじまりだった。