待つこと

2022.09.11

 

 

 

オーディオブックのサイトを物色して「50代60代におすすめ」のコーナーを眺めていると、結構ピンとくるものがあった。

これから人生を構築していく若者向けの本より、働き盛りの中年向けの本より、老人向けのメッセージに反応しやすい。

 

人生の後半に意識が向きすぎてるのだろうか。

あるいは前半から意識を逸らしすぎてるのだろうか。

そもそも前半と後半という区分けがしっくりこない。

「〜歳までに〇〇しなければ!!!」みたいな言説がピンとこない。

ピンとこないし、そんなものに流されるような人間でありたくない。

だから、決まりきった概念とかフレーズには注意して接する。

でも、なんで自分は「お決まりのパターン」にそんなに敏感になるんだんだろう、とも思う。

 

「35歳までに成功」とか、「30歳までに結婚」とか、そういうフレーズを目にすると、ん?となる。

違和感がある。

でも言いたいこともちょっとわかる。

そういう風に目標をがっちり設定しておくことで行動が促されることはわかるし、目標に向かって行動していくことは充実感があって楽しい。

 

でもそれではなんだか「楽」をし過ぎている気がする。

「言葉」に人生を預け過ぎているというか、「他人」に人生を預け過ぎている。

誰かが設定した決まり文句通りに生きてどうするんだ、と思う。

ただ、「決まり」に従わないでなんでも自由に決められる、というのも幻想だ。

 

「ものごとは自分で決めることはできないと同時に自分で決めなきゃいけない」と言いたい。

ちょっとレトリックになってしまうけれど、「自分で決めずに自分で決める」みたいなことが大事なんだと思う。

「自分で決めずに自分で決める」ということには、「他人の言葉を吟味する」というプロセスが包まれている。

決断の背景にある「思考プロセス」に重要性がある。

ぼくはきっと「決断」そのものより、「思考プロセス」に重心を置くことが大事なんだと思っているのだろう。

 

簡単に言えば、「自分で考える時間」が大切だと言いたい。

でも、「自分で考える時間」そのものが大切なんだと言いたいわけじゃない。

考える時間そのものより、その考えている時間のなかで「何かを掴む」ような瞬間が大切で、その「何かを掴む」瞬間を起こすために時間を必要とすると考えた方がいい。

 

それを掴むこと。

それを掴んだ瞬間を積み重ねること。

それが決断を支える背景になって、決断という前景をつくる。

 

いや、「掴む」より「触れる」の方がしっくりくる。

言葉の問題だけど、「掴む」より「触れる」の方がしっくりくる。

考えている時間のなかで、なにかに「触れる」瞬間があって、それに触れるために考える時間が必要なんだ。

それに触れる瞬間を「待つ」ことが必要なんだと思う。

決断とは、つまるところ、「待つ」ことなんだと思う。

 

そして、「待つ」ということは、「そこ」に向かっていくことなんだと思う。

 

 

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