波止場のざわめき

2023.06.26

マーロウを出て葉山港を散歩した。

港を歩きながら別野加奈の『宝石』を聴いていた。はじめて葉山港にきた日、家を出る前に「なにか新しい音楽を聴こう」と思って『宝石』が収録されている『forget me not』というアルバムをダウンロードした。

音楽と旅の記憶は結びつきやすい。むかし旅をしていたときに聴いていた曲を聴いていると、そのときの「旅の記憶」が感覚として蘇ってくる。その「旅の記憶」は日常の中に埋没してしまいそうになったとき、自分を救ってくれる。

「救い」というとおおげさだけど、その記憶によって「今ここにあるものだけが全てじゃない」と思える。そう思うことで、生きていける。

はじめて葉山港にきたときに、『宝石』を聴いた。そのとき、やっぱり「今ここにあるものだけが全てじゃない」と思った。「今ここにあるものだけが”全て”じゃない」と思うと同時に、「今ここにあるものは”全て”につながっている」と思った。

『宝石』を聴きながら港の景色を眺めて、そういう相反する気持ちを宥めようとしていた。

 

はじめて葉山港にきたとき、別野加奈の曲を携えるのと同じように、エリック・ホッファーの本も持っていって読んだ。そのとき持っていったのは、たしか、『波止場日記』だった。

港湾労働者だったホッファーの言葉は、自分の内側にある”目を背けたくなる部分”に直面させる。読んでいると、心がザワザワと揺れる。

葉山の波止場をトボトボと歩きながら、ホッファーと同じ港湾労働者だった父のことを思い出し、騒つく心と向き合った。

ここ数年、「ミスフィット(不適格者)」という言葉をずっと意識していた。ホッファーはその独創的な洞察で、彼らの「心理」を抉り出した。

たぶんぼくも「ミスフィット」にカテゴライズできるような人間で、社会に「適応」できないわけでは全然ないけれど、「こんなところに”適応”なんかしてたまるか」と、駄々を捏ねるガキのような部分がある。というか、そういう部分が全く抜けない。

そういうガキみたいな自分とちゃんと向き合おうとするとき、ホッファーの鮮烈な言葉が役に立つ。ホッファーの言葉は、甘ったれた自分を宥めることに役にたつ。

甘ったれた自分と直面するのは、楽じゃない。楽じゃないけど、ホッファーの言葉と向き合って自分の内側と向き合う時間は、大事な時間だと思う。

自分の嫌な部分と向き合わなきゃいけないから、苦しいし疲れる。エネルギーがいる。でも、その価値がわかると、それでも向き合いたいと思えるようになる。

 

自分の嫌な部分と向き合うからこそ深まっていくものがある。その「深み」に潜っていくと、「目に見えるもの」が表面的なものに思えてくる。たとえば政治。たとえば社会。

政治とか、社会とか、そんなものについて考えることに価値があると思えなかった。

でも、「政治に興味がない」なんて言うとそれはまぁ嘘になる。基本的には世の中が平和であってほしいし、ひとりでも多くの人が幸せに生きていてほしいと思うし、そういう世の中をつくるために政治が機能してほしいと思う。だけど、政治というものは、そもそもが「無理ゲー」である社会をなんとか機能させるための「妥協装置」のようなものなんだと思っていた。

だからなのか、世の中で悲惨な出来事があったり、社会がめちゃくちゃになっていても、基本的には「どうでもいい」と思っていた。「どうでもいい」と思うことで、世の悲惨をかろうじて受容しているようなところがあった。むしろ、「どうでもいい」と思うことこそ、”真に誠実な政治的態度”なんじゃないかと思っていた。

 

「目に見えない遠くの誰か」が「目に目えない空気」のようなものによって窒息しそうになっている。そういう感覚がいつもある。誰が何に苦しんでいるのかわからないけれど、誰かがいつもどこかで苦しんでいるような気がして、そんなことを考えて何になるのかわからないけれど、そんなことを考えることだけがこの世界の「誠実さ」を保証するような気がしていた。「自分の誠実さ」というより、「世界の誠実さ」を保証するような気がしていた。変な感じだけど。

ただ、「そんなものは”空疎な想像”なんじゃないか」とも思った。そんな”空疎な想像”をすることは、結局は「目に見えない世界」への逃走でもあるんだと思う。というより、やっぱりそれは「自己」からの逃走なんじゃないかと今は思う。

 

シモーヌ・ヴェイユの言葉にもホッファーと同じような匂いを感じる。表面のスタイルは全然ちがうけど、「不幸」を見つめたヴェイユや「ミスフィット」を洞察したホッファーは、どこか通じている。

二人とも「労働」を通じて「何か」をつかんでいるようにみえる。

ぼくもその「何か」をつかみたいと思った。

 

日本のアナルコ・サンディカリストが”女に刺された”港町で、労働と政治について考えさせられた。

 

葉山の海は、この日も、ずっとざわめいていた。

このざわめきを、もっと聴いていようと思った。

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