こんばんは。
ボールペンの”0.2ミリ”の差って、けっこう大きいような気がしませんか?
このまえ0.5ミリの黒いボールペンのインクが切れて、かわりに0.3ミリのものを使っていたのですが、どうもしっくりきませんでした。
いまの僕の環境では、「ボールペンを使っている時間」は「仕事の全体の時間」のなかでも4分の1にも満たないとおもうのですが、その4分の1にも満たない時間のなかに”しっくりこない感覚”があると、残りの4分の3の時間にまで”しっくりこない感覚”が侵食してくるような気がします。
一般に不快感は快感よりも記憶に残りやすく、脳がもたらす「オートモード」のようなものに流されているからでしょう。
たったの0.2ミリの違いなのですが、いちど「一定の幅」に慣れ親しんでしまうと、「別の幅」には”しっくりこなさ”を感じてしまいます。
ただ、これはきっと「慣れ」の問題でもあって、数日間か数週間程度「別の幅」に無理やり自分を合わせていけば、「最初の幅」の方が”しっくりこない”と感じるようになるんだろうなぁ、とも思います。
「変化の鍵」は、この「初期のしっくりこなさ」を、いったん脇に置いておけるかどうかにあるのだろうと、本屋で新しいボールペンを買いながら思いました(買ったのは結局元通りの0.5ミリ!)。
さっき本屋でアガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』を買った。
本文を読み始めるまえに文庫本の解説を読んで、それからネットでいつくか解説を探して読んだ。
読む前に勝手に作品のイメージをつくったのだ。
別の本でも、結構な割合でこういう読み方をする。
これが結構おもしろいし、色んな意味で自分を鍛えられる。
この作品を読み終えたとき、「結局は元通り」というメッセージを受け取ることになるのだろうとおもった。
そこで、逆にこの作品を読みながら、「別のメッセージ」を受け取るにはどうすればいいのか、と考えることにした。
読書中、どこに”注意”を向けて、何を自分で”補完”すればいいのか。
読む前の「準備運動」として、そういうイメージをつくっておくことにした。
「とりあえずの意図」をもっておくことで、読んでいるあいだにイメージが動きやすくなる。
起点があった方が、イメージを動かしやすいから。
イメージが動きやすくなると退屈しないし、独り善がりで狭いイメージにハマっていかないような気もする。
とはいえイメージが「自分の意図」から離れなかったら、それは結局は「独り善がり」なわけで、「最初の意図」からイメージが離れていかないと、きっとほとんど実りのない読書になる。
だから、この「勝手な読書」の勘所は、「どれだけイメージを遠くまで動かせるか」にかかっているのだと思う。