真なるものは、神的なものと同一であって、決してわれわれによって直接には認識されない。われわれはそれを反映と実例と象徴と個々の親近な現象においてのみ見る。われわれはそれを理解し得ない生命として認める。しかもそれを理解しようという願いを断念することができない。
『気象学試論』 ゲーテ
「老いの香ばしさ」について考えていた。
16時すぎ、支笏湖の駐車場についてダークブルーのハスラーをとめた。
日没が近づいた支笏湖には他にも何人か観光客がいた。
すこし周辺を散策した。店がちらほらと並んでいた。しかしほとんどしまっていた。
まだ営業しているカフェがあった。「LOG BEAR」。面白い名前のお店だ。
「熊」で連想をふくらませると、『ゴールデンカムイ』で主人公の杉本が熊とたたかうシーンが思い浮かんだ。
すこし背中がゾクっとした。
なにかを狩りたかったのだろうか。
店に入ると、案の定というか、「やっぱりそうなの?」と思わされたというか、熊みたいな見た目のおじさんがカウンターの向こうから出てきた。
すごく浅いニットキャップをかぶっていた。あたまが大きくみえた。小さいメガネをかけているのか、顔が大きくてメガネが小さくみえるのかわからないけど、とにかくメガネは小さかった。
コーヒーをのみながら本をよんでいた。こんなところまできてまだ本を読むのかと自分でも思った。
たぶんちょっと頭が沸いていた。
ときどき自分を「沸騰」させる。「心の川」のようなところを流れる「水」が腐ってしまう前に、その「水」を蒸発させる。そういう内的作業をしている。
自分でもよくわかってないけど、きっと「血の巡り」を滞らせないようにしているのだ。まだまだ血気盛んでありたいのだろう。
熊のおじさんがカウンターの奥にひっこんで、ひとりカフェにとり残された。
木目のきれいなテーブルのうえでコーヒーカップを遊ばせた。もうすこしで黒になりそうな焦茶色のコーヒーが波打っていた。
波打つ茶色をながめていると店内のBGMが『瑠璃色の地球』に変わった。手嶌葵の”未来への航海”バージョンだった。
「老い」について考えていた。
たぶんすこしめずらしいけど、ぼくは「老衰」というものに惹かれることがある。
「はやく老いたい」なんて意識はないけど、「老い」がもたらすものに惹かれている。
「老い」というものがなにか「次のための準備」のように感じられて、老いていくものから漂ってくる香ばしさに豊かさをおぼえる。
線香の匂いも好きだし、葬式の雰囲気がわりと嫌いじゃないし、「死」に近づいていくものを眺めていると「憧憬」とまでは言わないけど、自分の中の何かが燻られる。
だからといって、「死にたい」とおもったことはない。
そもそも「死」それ自体になにか意味があるとも思えないし、死ねば自分の抱えている問題が消えるとも思えないし、だいいち頭で考えても「死」はつかめない。「死にたい」と思ったことはないというより、「死にたい」と思う能力がないといった方が正確だ。
肉体を滅ぼし、死んで灰になりたい。そんなふうには全然思わない(ていうかフツーにやだ)けど、「精神的な死」に向かいたいという気持ちはある。
自分の中にある不必要な自我(アイデンティティ)をどうやったら殺せるのだろう。自分の内側を変容させるにはどうすればいいんだろう。どういう風に変容していくのがいいんだろう。
そんなことを考えることがよくある。
そんなことを考えているせいか、「死の恐怖」というものについても考えることがある。
「死の恐怖は、明日がないことの恐怖だ」みたいなことをホッファーが言っていて、ピンときた。
たぶん、死の恐怖の大半は「生きたいという衝動」を失うことへの恐怖で、もっと言うとこの衝動が魅せている「明日」というヴィジョンを失うことへの恐怖なんだと思う。
「老い」という現象が面白いのは、それが「明日」を失っていくプロセスに他ならないのに、なぜかそこ「未来への意志」のようなものを感じさせる場合があるからだ。
老いにも、「創造」の香りが漂うことがある。その香ばしさを感じられたとき、そこにつられてしまう。
自分の中の「いらない部分」をどう処理したらいいのかに迷っているとき、その香ばしさにつられることが多い。
自分の体質的に合わないコーヒーを飲みながら、そんな老け込んだ考えに浸っていた。
夜明けの来ない夜は無いさ
あなたがポツリ言う
灯台の立つ岬で
暗い海を見ていた
『瑠璃色の地球(「未来への航海」バージョン)』 手嶌葵