眠りに落ちるまえに

 

 

 

道のべの すみれ摘みつつ 鉢の子を

 忘れてぞ来し その鉢の子を

良寛

 

 

 

札駅のステラプレスイーストのスタバでカモミールティを飲み終わったあと、エスカレーターをあがって三省堂(本屋)に行きました。

「新しい旅先」では、デパートや本屋にいく癖があります。デパートに行くのは、その土地のことを知るための活動のための「拠点づくり」のような意味合いがあります。どこかに起点を設けると、その土地の空間的なイメージがしやすくなります(まぁ、単に”雑多なもの”を眺めるのが好きだというのが先にあるのですが)。

本屋に行くのは、その土地での「新たな出会い」を求めているからです。旅先で出会う本には「当たり」が多いのです。

旅先では「いつもは眠っている感覚」が開放されるから、センサーが敏感になるのでしょう。だから、「自分に必要な出会い」にやすやすと近づくことができるのです。

三省堂の中を歩いていると、青い装丁の文庫本が目に入りました。坂口恭平さんの『躁鬱大学』です。パラパラとページを捲りました。

最初に捲ったページに「アオ」という文字が刻まれていました。坂口さんの娘さんのお名前です。ぼくの甥っ子と同じ名前です。

もう少しパラパラ捲ると「バンクーバー」という文字が目に入りました、その文字に何となく感じるものがありました。

目次を少しじっくり読んでみて、「あ、読みたい!」と思いました。「今の自分に必要なもの」がたくさん詰まっていることを察知しました。

三省堂では買わずに、AmazonでKindle版を購入しました。最近、「紙」で読むより「電子」で読む方がしっくりくる場合が多いのです。「紙」で読む方がまだ確実にしっくりくるのは、詩集や写真集ぐらいです。

 

きのうの夜、星野道夫さんの写真集を読んでいました。夜、布団に入って眠りに落ちるまでの時間に詩集や写真集を読むのが日課で、最近は星野さんの写真集を枕元に置いています。

眠るまえに「いい言葉」や「いい景色」に触れると、睡眠が有意義になる気がします。

きのうの就寝前は、こんな言葉に触れました。

 

たとえ親であっても、子どもの心の痛みさえ

本当に分かち合うことはできないのではないか。

ただひとつできることは、

いつまでも見守ってあげるということだけだ。

その限界を知ったとき、

なぜかたまらなく子どもが愛おしくなってくる。

星野道夫

 

この言葉に触れたとき、ぼくも誰かを見守り、誰かに見守られているような感覚になりました。

 

痛みを分かち合えないこと。その限界を知ったときに感じるのが「愛おしさ」であること。

そこに、人間であることの不思議を感じます。

この言葉を感じながら眠りについてみて、「死ぬときもこんな感覚であれたらいいなぁ」と思いました。 

 

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