日曜日の朝、朝刊がおわって家に帰ってきたとき「今日はじょうずに家でくつろげそうにないな」と思った。
早めに外に出て気分を変えようと思った。
9時前に武蔵小山へ向かった。
Audibleで山本七平の『空気の研究』を聴いていた。
自転車をこいで道路の端っこの部分を進みながら、ちょくちょく停車している車をかわす。
右からかわしたり、左からかわしたり。
ハチのダンスみたいだ。
タリーズに入ってデカフェを頼んだ。
表情がしっとりとしている店員さんに「今からおつくりしますので呼び出しベルをお持ちになってお待ちください」と言われた。
艶やかな髪をまとめていく手つき。
あの手つきの滑らかさに似た滑らかな口調で言われた。
まだ束ね終わっていないけれど、終わっていないからこそ生まれる瞬間の輝き。
束ねられる途中の瞬間って、なんであんなに綺麗なんだろう。
リモコンみたいなやつが、「ピー、ピー」と音を鳴らしながら木目の机の上で震えていた。
さっきとは別の店員さんが「お待たせしました」と言いながら、マグカップを持ってこっちに呼びかけてくれた。
作業が捗った。
アウトライナーのメモを眺めながら今週の記憶を辿って、そのあとは執筆。
デカフェを飲みながら憑き物を落としていくみたいにパチパチとキーボードを叩いた。
何かを落としていくように書くのは楽しい。
自分の中でブクブク膨らんだ思考や感情を削いでいく。
膨らんでいく不快さに針を刺し、空気を抜いていく。その快感。
削ぐことで何かを生み出していくこと。その悦び。
11時になって大戸屋に行った。
朝はがっつりご飯が食べたくて仕方がなかったのに、夢中で作業をしていたら食べたいという気持ちはどこかへ消えていた。
今はお腹が空いていないけれど、あとで人の多い時間になって食べたくなるのは嫌だなと思って、「まあいいや」と思ってタリーズを出たのだった。
サバの味噌煮定食を食べた。
おまけに納豆もつけて「少なめ」の五穀米と一緒に食べた。
おいしかった。おいしかったのだけど、お腹が膨らんで頭がまわらなくなった。
ぼくは満腹になると気持ち悪くなる体質で、なるべくお腹が空いていない状態で過ごしたいと思っている。
だけど、油断するとついつい食べすぎてしまう。
食べすぎてお腹がいっぱいになると、なぜか「もっと食べたい」という気持ちが膨らんでいく。
大戸屋を出たあと、200メートルぐらい先のビオセボンで「甘いお菓子」を買っていた。
世界には「これ以上膨らませるとまずい」というラインがあって、それを超えないようにする判断力が必要だと思った。
11時に開店直後のすいている大戸屋に行ったのは習慣的な気分で”なんとなく”判断したからだったけれど、たぶんあそこがラインを踏み越えた瞬間だった。
時間に惑わされたのだ。
あそこで”なんとなく”という気分に針を刺しておけばよかった。
お腹がすいていないのなら無理して食べなくていいし、もし後からお腹がすいたのならそのときにまた判断して、例えばスーパーで「ちょっとしたおかず」でも買って家で食べればよかったのだ。