2023.01.19
今日は朝刊を配りながら「焦り」について考えていた。
朝刊のとき、工事現場をのまえを通った。
陽がのぼる前の、人のいない、暗い工事現場。
街は暗かったけど、気分は明るかった。
側道にカブを停め、白い一軒家のドアに新聞を挟んだ。
踵をかえして、カブの方に戻った。
その途中、工事現場の看板と、ゴミ捨て場の看板が視界に入ってきた。
全体が緑で塗られた十字架のマークの工事現場の看板。
「安全管理」と書かれていた。
全体が赤で塗られたゴミ捨て場のプラスチックの看板。
「不法投棄禁止」と書かれていた。
看板を眺めて新聞を配っていると、「焦り」という言葉が頭に浮かんだ。
なので、「焦り」について考えてみることにした。
そもそも、焦りってなんなのだろうか。
学校や部活や職場で「焦っちゃいけない」と何度も教わった。
じぶんの経験的な感覚だけだけど、焦っていいことはないと思える。
焦っていいことはないと思えるけれど、「焦り」の中にも、必要な「何か」があるような気もする。
焦りの中にある何か。
その「何か」について考えていると、意識に何かが引っ掛かった。
この”引っ掛かり”はなんなのだろうと思って、すこしの時間、集中して考えた。
ところで、緑に囲まれていると、リラックスする。
山を登っているとき、あるいは山を眺めているとき、からだが安らぐ。
木々に囲まれた公園を散歩しているとき、ベンチにすわって木をボーッと眺めているとき、気分がやわらぐ。
緑と接しているときのリラックスした感覚。
そのときの感覚は微細だ。
微細な感覚の流れに身をあずけることの”気持ちよさ”。
緑と接しているとき、この”気持ちよさ”一色に染まるだけじゃなく、なにか「他の感覚」も混じっている。
完全に体がゆるみきっているわけではない。
気持ちよくてゆるんでいる感覚の他に、緊張を感じている部分もある。
「緑」でもほぐせないような緊張がある。
「緑」がほぐす必要がないような緊張があるような気がする。
この緊張が、きっと焦りの「出どころ」や焦りの「源泉」だ。
山、森、林、樹。
緑は癒しをもたらしてくれると共に、なにか「警報」のようなものも発して、こちらに伝えてきているように思う。
「安全管理」の文字が刻まれた緑の看板みたいに、「気をつけろ!」と言ってくれているような気がする。
焦って失敗することの多い人生を送っていると、焦ることが「完璧によくないこと」のようにも思えてくる。
けれど、完全にゆるみきってしまうのは危険なことだから、焦りはやっぱり必要なものなんだと思う。
生きている内は、(微細なところでは)常に焦っていてもいいんだと思う。
根源的な焦り。
微細な感覚としての焦り。
それはきっと、安全管理のための”警報器”なのだ。
自分を守ってくれるものなのだ。
この警報器が伝えてくれる音を聞こえないフリをしていると、危険な目に遭う。
見て見ぬ振りをしながら不法投棄をするみたいに聞こえないフリをすると、危険な目に遭う。
大事なものまで、ゴミだと勘違いして捨ててしまう。
真っ赤な情熱。
情熱的な精神状態は、どこかくすぐったい「焦り」をなかったことにしてしまう。
こんなものは捨ててしまえと、すべてをクリーンにしようとする。
いつまでもなくならない悩み。
モヤモヤした感覚。
くすぐったい焦り。
そういうものにも、何らかの意味がある。
朝刊を配りながらいろいろ考えていると、そう思えてきた。
交差点で信号を待ち、バイクをとめた。
残りの新聞はあと40部くらい。
もうすぐ終わりだ。
赤い信号を見ながら、赤い看板に書かれた「不法投棄禁止」の文字を思い出した。
「不法投棄禁止」の文字の残像を、頭に浮かべた。
信号が、赤から青に変わった。
緑色に変わっていく信号。
人気のない交差点の青信号を見ていると、なんだかホッとした。
いつもと変わらない、気持ちいい朝だった。