湘南新宿ラインで大宮に向かう電車の中で、『ヨブへの答え』を読んでいた。イエスはヨブとヤーヴェを掛け合わせたような人間だったんじゃないか、みたいなことをユングが言っていて、きっとそうなんだろうと思った。
隣に座っている金髪ショートの女の人が、途中で乗ってきた別の女の人に声をかけていた。たまたま同じ電車に乗り合わせたみたいだ。席を譲って隣同士に座ってもらおうかとおもったけど、おしゃべりが盛り上がってて声をかけるタイミングを逃した。何事もなかったかのように、再度『ヨブへの答え』を読むことにした。盛り上がる女子の会話と反比例するように、ぼくの集中力は落ちていった。
気分を変えるために、『ヨブへの答え』を閉じてバッグにしまい、ケン・ウィルバーの『インテグラル心理学』を取り出した。
ウィルバーの本やトランスパーソナル心理学周りの本は、”即物的”過ぎると言われているのを見かけたことがある。それで「さて、どうなんだろう」という気持ちで読んでみたけれど、そうとう面白かった。
「即物的」とか「軽薄」とか言われているものの方が自分には合うことが多くあって、それはたぶん「本」や「知」というものの捉え方が、学問を真面目やっているような人たちとは違う(場合が多い)んだろうなぁと思った。
頭の中で考えてから物事を見るんじゃなくて、順番としては、「ナマの体験」とか「ナマの実感」のようなものがあって、それを整理するために「本」や「知」というものを使っている(それだけじゃないけど)。だから、それはまさに「即物的」だし、それでいいと思った。
強度のある体験や実感があると、その感覚と思考のあいだに裂け目ができる。その裂け目を補填しようとして本を読むわけだけど(それだけじゃないけど)、その裂け目は”ある程度”の理屈で補填できる。そんなに厳密な理屈はいらない。だから、理論の整合性などには、そこまでこだわらなくなる。だから、そこへのこだわりが強い人からみると「軽薄」に見えるんだろうか。
自分のやっていることを「軽薄」だと言われるのはちょっと心外だなぁとおもうけれど、それも見方によってはたぶん間違ってないし、そもそも「モノの捉え方」がたぶん根本から違うのだから、いちいち取り合う必要もないんだろうとなぁ思った。
そもそもアタマは軽い方がいいと思っているし、アタマの軽さを維持したくて「体感」を重視してるのだから、「軽薄」なのはそんなに悪いことじゃないと思った。思慮が浅いのはダメだけど、アタマは軽い方がいい。
思慮深くあるためには、アタマでゴチャゴチャで考える以外にも、やり方がある。それがわかっていれば、「軽薄」でも別にいいんじゃないかと思った。