2022.11.23
学大の定食屋の「天狗」で昼ごはんを食べた。
「サイコロステーキとからあげの定食」を食べながら、弟とLINEをしていた。
「いいテンポ」だなと思いながらiPhoneをポチポチやっていると、このやり取りは兄弟とか家族とかより、「ともだち」っぽいなと思った。
実家のママの近況をLINEで報告してくれる弟。
やっぱりこいつは「弟」だな、と思った。
「でもなんか違うんよなぁ」とも思った。
あぁ、そうだ。
ツレだ。
自分よりちょっと遅れて同じ子宮から出てきた彼は、「ツレ」だと思った。
”連れ立って”生まれてきたわけではなく、ずいぶん時間があいて生まれてきたけれど、やっぱり「ツレ」だと思った。
サイコロステーキは鉄板に乗っかっていた。
切れ切れになった牛肉が円状に並んでいて、その中心に大根おろしが宝石みたいに祭り上げられていた。
鉄板の右側にある「別の器」に乗っけられた”からあげ”をつまんで頬張った。
口の中で肉汁がジュワッと漏れるのを感じながら咀嚼していた。
鶏肉をぐちゃぐちゃにしながら牛肉の鉄板の方を眺めながら、「供犠がそこにある」と思った。
大根おろしが定食屋のライトを反射して、街のイルミネーションみたいに灯っていた。
分割されたサイコロステーキを、一粒ずつ大根おろしにあてて食べた。
この牛の破片は「街灯に突っ込んでいく虫」みたいだ。
大根おろしはバイバチと音を鳴らす変わりに、すこしずつ形を崩しながらグチョグチョと音を立てていた。
天狗を後にして、駅前のドトールに入った。
椅子に座ってアイスレモンティーとチーズケーキを頼んだ。
今日の椅子はあんまり「座り心地」が良くない。
傾斜が上向きの板は座りにくい。
座ったときに地面の方に下っていく角度の板の方が、座り心地がいい。
「下り坂」の方が相性がいいのだ。
まぁしょうがないやと思って、背骨をいつもより前に倒した。
いつもより前傾姿勢。
「上り坂」で前向きになってしまった。
人生を坂に例える人がいる。
ありふれた例えだけど、けっこう好きだ。
「人生には上り坂もあれば下り坂もある」みたいな言葉を何度か聞いたことがあるけれど、あれを聞くと救急隊のときに見ていた「心電図」が思い浮かぶ。
人生は心電図みたいに波打っている。
心電図のあの線が直線になったときは、死んだ時だ。
上りも下りもないのは、”死の境地”だ。
だから、座り心地がいいのも、座り心地がよくないのも、生きてる証拠だ。
ドトールの傾斜の上がった椅子に座りながら色々と考えていると、「下り坂で前向きになる」のはひとつの生きるコツだと思った。
ちょっと変な例えだが、それはスキージャンプのようなものでもある。
雪山を”二本の板”で下っていくスキージャンパーみたいに、「遠くまで飛びつつしっかり着地する」ためのバランスのとれた姿勢をつくること。
それは、「次の山」を登るための準備にもなる。
着地したとき、飛んでいるときの前向きな姿勢のその「前向きさ」が、「次の上り坂」を登るためのエネルギーになって貯まっているから。
逆に考えると、上り坂で前向きになってしまったら、「次の谷」で落っこちやすくなるのだろうか。
そんな気がする。
上り坂のときは後ろ向きに。下り坂のときは前向きに。
それがセオリー。
浮いたり沈んだり、登ったり降ったり。
人生は平地のない上り下りの連続だ。
その上り下りの連続のなかに、”同じ場所”から放り出され、連れ立って生まれてきた弟。
ポンポンポンポンLINEの返信をくれる弟。
連れ連れなるままに返信をくれる弟。
「徒然なるままに、日暮らし」をしながら硯に向かうのも楽しそうだけど、「連れ連れなるまま」を感じながら硯に向かう日々も、たのしい。