遊びと制約

 

今日、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を読み始めました。

人間の本質は「遊び」であり、「文化の中に遊びがあるのではなく、遊びから文化がうまれる。つまり、人間は本来、文化で遊ぶのではなく、人間の遊びが文化になる。」と説いた本だそうですね。

沖仲仕の哲学者、エリック・ホッファーが遊び心の価値を説いてのを思い出しました。ホッファーも、一見無意味にみえる遊びから創造的なものがうまれると書いていました。

ぼくは、ホッファーが書いていたことの真意を掴み損ねていると感じていたのですが、「遊び」に価値があるという結論だけは、直感的に正しいと思いました。

つまらない大人が「そんなことしてないで真面目に勉強しなさい」と言ったり、つまらない大人が「そんなことしてないで真面目に働きなさい」と言ってるときの、「そんなこと」にこそ価値があると思ったのです。「そんなことで」で遊ぶことに豊かさがあると思ったのです。

きのう、港に行ったときの事を書きました。書いたあと、ちょっと「詩情」が過剰すぎるなぁと反省しました。

ほんとは、詩情(私情?)を挟まずに、ロジカルに書きたいと思っていたのです。けれども、詩情に襲われると、抵抗できずに流されてしまいます。

詩情に飲まれるのは、僕にとっての一種の「遊び」のように思います。詩こそ、遊びの本質と関わっているように思えます(ええ、自己正当化を多分に含みます)。

ともかく、詩は遊びの本質と関わっているし、必要不可欠なものには変わりがないのですが、「詩情」と「私情」を混同するのが、なんだか間違っているのではないかと思いました。

私情は、詩の価値を低めてしまう。

私情と詩情の区別をしなければならないと思いました。

この区別はむずかしいです。

「私情を挟まない」という言葉を使うと、「滅私奉公」など、「自分を殺す」ようなイメージをぼくは抱くのですが、それは違うのです。「自分」はいるのです。

「自分」はいるのですが、前にしゃしゃり出るのではなく、奥の方でどっしり座ってるようなイメージです。

「自分」が前にしゃしゃり出てると私情が出て、「自分」が奥でどっしり座っていると詩情が出る。今は、そんな風にイメージしておこうと思います。

 

『ホモ・ルーデンス』を開き、気になっていたところから読みました。

気になっていたのは、遊びにおける「制約」や「規則」です。

遊びとは、「なんでもOK」というものではなく、何らかの「制限」の中で行われるものであると感じていました。

本気で遊ぶには、何らかの「制約」を自分に課す必要があると考えていたのです。自分にどんな「制約」を課せば、本気で楽しむことができるのか。それを考えたかったのです。

ぼくは、他人から「制限」をかけられのるが大嫌いです。

他人に「制限」をかけられるのは嫌いですが、「制約」は必要だと感じています。いえ、「必要」というと、言葉が強いですね。「制約」を引き受けてこそ見えてくる「何か」があるような気がしていたのです。

その「何か」について考えていたのですが、なんだか疲れてきたので、今日はこれでやめにします。

 

慣れない書き方をしたせいか、なんだか今日はヘトヘトです。ヘトヘトですが、それがちょっと気持ちいいです。

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