このまえ実家に帰省した。
最近、自宅のある東京から実家のある福岡までの「距離感」を掴み損ねていた。
なにか故郷が遠くなったように気がするし、でもやっぱり帰ると落ち着く。
安心する。
「遠いのに近い場所」みたいな感覚がある。
東京に出てきてからの自分と、福岡にいた頃の自分は変化している。
過去の自分と今の自分には「落差」がある。
その「落差」と「距離感」はどこか似ている。
実家から東京に戻るとき、まず最初に小倉から博多駅まで新幹線に乗った。
前日に妹に「小倉駅から博多までの新幹線って指定席とかあるんかね?」と聞くと、「15分で着くのに指定席とかいらんやろ」と言われた。
忘れていた。
小倉から博多までたったの15分で着くのだった。
人は日々変わっていくし、時間が経てば感覚がズレていくことは当たり前だ。
だけどその当たり前にズレていくことがなんだか悲しくなるときがある。
その悲しみを「ノスタルジー」と呼ぶのかもしれないと思った。
でもなにか違和感があった。
これをノスタルジーと呼ぶのは変な気がした。
この悲しみはノスタルジーとはちょっと違うと思った。
ノスタルジーという言葉は過去に重心がかかっているように感じる。
けれど、自分が感じている悲しみは未来に重心がかかっている。
だから何か「ズレ」があると思った。
実家に帰ったとき、過去のいろんなことを思い出す。
過去を思い出しているのだけど、それは過去を思い出して過去を見つめているというより、過去を思い出して未来を見つめているような感覚だ。
朝、実家リビングで自分で買ったミックスナッツと母が用意してくれたマスカットを食べていた。
東京で健康のためにナッツを食べる習慣をつけて、実家でも同じことをしていた。
朝に食べるいつものナッツと、優しい母が久しぶりに出してくれたマスカット。
近くて遠い福岡の片隅で食べる朝食は、なんだか温かくて、そして寂しかった。
母が台所で洗い物をしている音を聞いていた。
隣の化粧台で妹がメイクをしていて、僕はボーッとテレビを眺めていた。
福岡のローカル番組の「アサデス」のアナウンサーの声。
ずっと昔からアナウンサーをしている男の人の声だった。
その声は、自分が実家にいた時から変わってなかった。
変わっていないけれど、新鮮だった。
故郷に帰ると、新しい発見がある。
一見懐かしいと感じていいような出来事に、新鮮さを感じる。
「過去の捉え方が変わる」と言ってしまえばそれまでだけど、そこには捉え方という言葉よりも、もっと大きな何かがあると思った。
その何かは、故郷にいた頃の自分と、故郷を出てからの自分の約6年間のあいだにつくられたものじゃないかと思った。
けれど、「6年間の自分の時間」というのも、その「大きな何か」には見合わないと思った。
間尺が合わない。
もっとスケールの大きな「何か」が、故郷に帰ったときに感じる新鮮さをつくっている。
そんな気がした。