2023.07.01
今日はチェックインの練習をした。
ちょっと不快な体験だった。
ちょっと不快で、面白い体験をした。
新しい仕事は旅館のフロント業務だ。
これまで旅館の仕事をしたことがないばかりか、接客業すら初めてだ。
人と接する仕事がやってみたかったから、楽しみだった。
チェックインをするカウンターがあるスペース。
ここでは「帳場」と呼んでいるらしい。
昔の旅館用語みたいだ。
その帳場の玄関の横に、金木犀の木があった。
まだ、花は咲いていなかった。
ここで「一花咲かせよう」と意気込んでいたわけではないし、なんなら仕事に対する情熱が全然沸いてこなくて、「こんなんで大丈夫か?」と思っていた。
ただ、手を抜いて時間を無下にするのは嫌だった。
無理矢理にでもいいから仕事の時間を充実させたかった。
だから、仕事の時間を意味あるものにするための「物語」をつくろうと思った。
この「労働の時間」を意味あるものにするにはどうしたらいいのだろうか。
この時間は「未来の自分」にとってどんな価値を持つのだろうか。
この時間を「誰か」にとって意味のあるものにするにはどうしたらいいのだろうか。
「お客様のために」という言葉は、なんだか嘘くさい。
言葉は正しいけれど、その言葉が使われている文脈はたいてい嘘に塗れている。
言葉は悪いけれど、端的に言って”腐って”いる。
嘘で塗り固められた言葉を使うと、「抵抗感」を覚える。
臭いものは臭いのだ。
臭いものは臭いし、「抵抗感」を覚えるけれど、自分も平気な顔をして「お客様のために」みたいなことを言っている。
いつからこの「腐臭」に慣れてしまったのだろうか。
チェックインの練習に、何人かの「先輩」に付き合っていただいた。
ほとんどの方が丁寧に教えてくださった。
ありがたいことだ。
その有り難みを一番感じたのは、「クドイおじさん」と練習をした後だった。
おじさんのどうでもいい「こだわり」と、どうでもいい「腹いせ」に満ちたチェックイン練習だった。
それは、ある意味面白かった。
これまでも何度も体験してきたことだ。
きっと、社会人として働く多くの人が体験するであろう「おじさんの腹いせ」に満ちた指導。
この指導の「腐臭」を嗅いで、なんだか懐かしい気分になった。
この腐臭に何を「調合」したら、「害のない匂い」になるだろうか。
いや、「害のない」なんて言って「マイナス」を「0」に戻すだけではなく、「プラス」に持っていくことはできないだろうか。
金木犀のような香りまでに高めて、遠くまで香気を漂わせることはできないだろうか。
老害の放つ加齢臭。
誰だって年老いていけば加齢臭ぐらい放つようになる。
きっと男も女も関係ない。
ただ、それを「フロント」で放つのはよした方がいい。
誰だって玄関で加齢臭を嗅ぐのは嫌だろう。
金木犀と加齢臭なら、金木犀を選ぶ。
何を「前面」に持ってくるべきで、何を「背面」に持っていくべきなのか。
前も後ろも全部綺麗な人なんていない。
でも、やっぱり前に持ってくるのはその人の中の「綺麗な部分」が相応しいと思う。
綺麗な部分というか、「心地いい部分」が相応しいんだと思う。
自分以外の「誰か」にとって心地いい部分。
自分の「顔」は、自分には見えない。
鏡が写してくれることはあるけれど、直接見ることはできない。
改めて考えてみると不思議なことだけど、自分以外の人はいつも直接自分の「顔」をみているのに、自分は「鏡」を通じてしか「自分の顔」を見ていない。
自分の顔は、自分以外の「何か」を通じてしか見ることができない。
そのことの意味を考えると、自分以外の誰かにとっての「心地よさ」を追求することでしか、「自分の顔」を”綺麗なもの”に近づけることはできないんじゃないかと思った。
「他人は自分を映す鏡」。
誰が言い始めたのか知らないけれど、よくできた言葉だと思う。
自分にとって「心地よいこと」を追求すると、それが他の誰かにとっても「心地よいこと」になる。
そういうパターンもある。
自分を大事にすると、他の誰かも大事にできるようになる。
「自分の顔」が見えなくても、”自分を大事にする”ことはできる。
見えない部分を大事にすること。
それは「見えない自分」を大切にするということだ。
「見えない自分」を大切にするということは、「自分以外の誰か」を大切にするということだ。
と、ここまで書いていて、この話こそ「どうでもいい話」なんじゃないかと思いはじめた。
こんな話ばっかりしていると、「フロントで加齢臭を放つおじさん」になりそうな気がしてきた。
「老化」が進んでそうで、ちょっと焦ってきた。
「フロントで加齢臭を放つおじさん」は、自分の中にもすでに根を生やしている。
おじさんはとにかく「余計な話」をする。
こいつに水をやるのはよそうと思った。
こいつはもう枯れた方がいいのだ。
おじさんの木が枯れる。
おじさんと過ごすと気が枯れる。
おじさんと過ごすと気が枯れていくけれど、「枯れていく木」は、時折、美しくもある。
若者も、いつしか「紅潮した顔」を引かせ、地に足をつけておじさんになる。
どうせなら、美しくおじさんになりたい。
美しく散っていけば、それは「次の美しさ」の種になる。
その種はきっと、「いい匂いのする木」に育つ。
玄関の隣でいい香りを漂わせ、たくさんの”お客様”を呼ぶ。
「裏を見せ、表を見せて、散る紅葉(もみじ)」 良寛
もう、秋が楽しみになってきた。