淡雪(あはゆき)の 中に立ちたる
三千大千世界(みちおほち)
またその中に 泡雪(あわゆき)ぞ降る
良寛
北海道にきてから、1週間がすぎました。あしたは、冬至です。
さっき、U-NEXTの余ったポイントで内村鑑三の関連の本を3冊買いました。内村鑑三は、北海道に関係が深いキリスト者です。
今年の「キリストの誕生日」は、北海道で内村の本を読んで過ごすことになりそうです。こうなることは、ずっと前から決まっていたような気がします。不思議だけど、そういう感覚があります。
冬至は、キリストの”本当の誕生日”だと言われているらしいです。「復活」や「再臨」のメタファーとして「太陽が生まれ変わる日」は、教義に相応しいのでしょう。本当か嘘かはともかく、太陽が生まれ変わる日には「何か」があると感じます。
なので、冬至をきっかけに改めて「キリスト者」と向き合うことにしました。「キリスト教」ではなく、「キリスト者」です。ぼくが惹かれる人には、なぜか「キリスト者」が多い。もしくは「キリストっぽい人」が多い。
あしたの朝は仕事の送迎バスで、佐藤優さんが解説した内村鑑三の本、「人生、何を成したかよりどう生きるか」を読もうと思います。楽しみです。
送迎バスの窓の外にみえる雪景色は、きれいです。送迎バスの道のりは、ぼくが住んでいる倶知安駅から比羅夫のスキー場までです。雪がとければ、きっとなんともない味気ない道なのでしょう。雪が、景色をつくっているのです。
バスの中では、ほとんど黙って過ごしています。人と話すのが好きなので、なんだか寂しいきもちにもなります。
職場のひとと話すじかんも大事にしたいのですが、いまのぼくには「自分と向き合う時間」がもっと大事なので、寂しいきもちも味わっていきたいです。
いまはもう、寂しくても平気です。寂しさは消えないけど、雪をみていると、寂しさが通り過ぎるような感覚になります。そう、平気なのは雪のおかげなのです。
雪が、寂しさは冷たい感情ではないと知らせてくる。誰かを想うからこそ、寂しくなる。だから、寂しさは、冷たい感情ではないのです。
良寛さんは、雪と月が大好きだったみたいです。ぼくも、伊豆高原で月が大好きになりました。きっと、北海道で雪も大好きになるのでしょう。自分がこれからもっともっと好きになるであろうものがある、そういう「今」にいられることが、うれしい。
きのう、札幌に行きました。北海道大学に行こうとおもって、その前に、カフェで一息つこうと思いました。
Googleマップを開き、「コーヒー屋さん月祭」というカフェを見つけました。行くことにしました。即決でした。
コーヒー屋さんまでの道中は、雪の中を歩いて「月」を求める散歩になりました。その「月」を求める散歩の途中、北12条駅のちかくで、有島武郎の旧邸の跡地をみつけました。有島武郎は、内村鑑三のお弟子さんです。
数年前に有島武郎の「小さき者へ」を読んだとき、「この人はオレと一緒だ」と思いました。
その有島は、ニセコに縁がある人です。有島がニセコに縁があったから、ずっと行きたかった北海道の中でニセコを選んで、ぼくはここまでやってきたのかもしれません。
有島の旧邸の跡地についたとき、「北海道でやりたいこと」の匂いがしました。有島武郎から、何かを学ばなければならない。そう思いました。
札幌を歩きながら、しばらく「北海道でやりたいこと」について思念を巡らせていました。そして、朧げにではありますが、直感的にこたえが出ました。
有島武郎から「何か」を学ぶということは、内村鑑三から「何か」を学ぶということ。有島と内村の関係をみること。
その関係の鍵は、「信じる力」である。
一旦、そんな仮定をしました。仮定ではあるけれど、ぼくのこういう直感は当たります。
これから、すこしずつこの直感を紐解いていこうと思います。
雪がとけるころ、その直感が「何か」になっている。
そう信じています。
ニセコの粉雪も、春になると淡雪にかわるそうです。
まだまだ寒い日が続きますが、ふと気づくと、いつのまにか淡雪がふる季節になるでしょう。
雪を楽しみ、自分を信じて、春を待つ。そういう冬にしたいです。
お互い、いい季節にしたいですね。